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日系移民 (NIKKEI History)
2015-11-07 | ロバート汐見

アメリカ日系一世ロバート汐見の足跡(3)ロバート汐見の青春

1920年にフェイリング・エレメンタリースクールを卒業し、ロバート汐見はベンソン・ハイスクール(写真1)に進学した。地元密着紙OREGONIAN*に何回か名前が掲載されている。

写真1
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<ラジオクラブ> 1922年3月19日付
12人の新メンバーが前回3月7日のミーティングで選ばれた。フロイド・ロビンソン、グレン・フーバー、(中略)ロバート汐見とジョセフ・ミラー。ミーティングではクラブの年長のメンバーによる無線電信の連続講義と質問コーナーが始まっている。リチャード・セトラストロムとウィラード・バージーは受信機を作成し現在設定中だ。この受信機は完成後クラブ室に設置される。

Shows afford Amusements for pupils of citi high schools (The Sunday Oregonian 19,Mar. 1922)
右から4列目、下から第2パラグラフが当該記事。

<カメラクラブ> 1922年11月19日付
ベンソン・テック・カメラ・クラブは毎週金曜日の放課後に定例会を開いている。11月10日にはクラブに相応しいピンバッジ式エンブレムの選定を行った。採用されたデザインはコダックの折り畳みカメラのミニチュアの意匠で、クラブの頭文字T.C.C.が刻まれている。ホールデン・リロイは様々な写真誌を調査し次回のミーティングで報告する事になった。新しい暗室の予定表も完成し、運用され始めた。メンバーはこの週次予定表に従って自分やクラブの写真を現像し、技術を磨く。今回の定例会の多くの時間は、準備中の写真コンテストの打ち合わせに割かれた。ロバート汐見は掃除係を任されて暗室を片付けに行った。

Multitude of affairs keep pupils of high schools busy (The Sunday Oregonian 19, Nov. 1922)
右から2列目最下段パラグラフが当該記事。

ラジオクラブとカメラクラブ。ロバートは中々新しい物好きだったようである。
ラジオクラブの集合写真でもアジア人はただ一人。それにも臆せず古き良き時代のアメリカで高校生活を楽しんでいたロバートの姿が浮かぶ。(写真2)

写真2(前から2列目右から2人目がロバートと思われる)
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高校卒業後、ロバートはオレゴン医学部大学に進学した。父の佐市はこの頃日本に帰国したらしく、ロバートの次女キャロルによると、ロバートは住み込みの下男(houseboy)をして学費を稼いだと言う。1930年のオレゴン大学年鑑の復刻版を取り寄せたところ、アールデコの装丁の立派なハードカバーで、多彩なクラブ活動や様々なアクティビティで青春を謳歌する大学生達が溢れているが、ロバートにはその様な余裕はなかったことだろう。博士帽を被ったロバートの卒業写真のキャプションには、卒業後の進路はニューヨークでのインターンとある。(写真3)

写真3
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オレゴン大学紀要(The University of OREGON Bulettin)によると、ロバートはCollege of Literature, Science and the ArtsとSchool of Medicine, Doctor of MedicineのBAを取得している。青春代に培った文学・科学・芸術の素養が、後に美術館やオーケストラ、オペラへの支援活動に繋がったのだろうか。

*The Sunday Oregonian原文
<Radio club 19220319>
Twelve new members were voted into the Radio club at the last meeting on March 7. They are: Floyd Robinson, Grenn Hoover, Darwin Marvin, Leslie Brennan, W. C. Stuart, Percy Yost, Ralph Peterson, Clyde Blomgren, Richard Oswad, Ed Bell, Robert Shiomi and Joseph Miller.

Their older members of the club have started a series of lectures on the theory of wireless telegraphy at the meetings. A question box has also been started. Rechard Settlerstrom and Willard Barzee are now constructing and setting up a receiving set. This set will be installed in the club room when it is completed. The club constitution is being revised by Murice Saelens, William Burke and John Smith.

<The Benson Tech Camera club 19221119>
The Benson Tech Camera club held their regular meeting after school on Friday, November 10 at which time they proceeded to select a suitable emblem in the way of a pin which would represent the club in the most satisfactory manner.

It was decided that the best design was that of an open miniature folding camera of kodak, upon which was emblazoned the letters T.C.C. Holden LeRoy was appointed to investigate merits of various photography magazines and make a report on the same at the next meeting.

The new dark room schedule has just been completed and is now being enforced. By this schedule each member is allotted a certain amount of time to use the dark room each week for he purpose of developing or printing his own or the club’s pictures.

A good portion of the meeting period was devoted to the talking over of the photography contest now in progress among the club members.

Robert Shiomi was appointed clean and straighten up the dark room

 

 

2015-10-04 | ロバート汐見

アメリカ日系一世ロバート汐見の足跡(コラム1)ロバートに命を救われた女性の話

アメリカのルーツ探しサイト ancestry.com に、ロバートの写真や新聞記事が数点アップされていたのを見つけました。不思議に思い投稿者のジョン・マニオンさんに問い合わせたところ、早速返事を頂いたので詳しい話を乞うと翌日には丁寧なメールを送ってくれました。

 

「こんにちは!長いメールですよ!楽しんで下さい!

このメールに僕が調べた全てを書くつもりです。添付ファイルは大きすぎるので分けて送ります。

母について。長い物語ではありません。母は短く簡単に話す人だったので。

それでも彼女は2014年に亡くなる直前まで何度も何度もこの話を語りました。掛かり付けの医者にもDr.ロバートの事を話しました。僕の他の家族もこの話を聞いています。僕が知っている事を話しましょう・・

<母の物語>

彼女は1948年に大学を卒業しました。24才でした。卒業後、まだ働き始める前に彼女は病気になりました。重い病気です。ウィルス性の肺炎でした。彼女の担当医は抗生剤とサルファ剤を処方しましたが彼女はベッドから離れられず、担当医は匙を投げました。

彼女にジェーンという社交的な友人がおり、彼女を介して往診をすることで知られていた日本人医師の元に行く事になりました。母曰く、第二次大戦後のポートランドでは日本人の評判は良くなかったので、普通ならば日本人に助けを求めるなどありえなかったと言うことです。

ドクター汐見は彼女の家を往診しました。何度か診察した後、彼女はサルファ剤アレルギーのために敗血性ショックを起こしているので投薬を止めるべきと診断しました。彼女は高熱を出していたため、彼と看護婦が2週間の間、殆ど毎日往診を続けました。そして3週間の後、彼女は回復したのです。ドクター汐見は、今回の病気のために心肥大の症状が残った事を伝えました。皆、ドクターが彼女の生命を救ったと語り合いました。

彼女は1951年に結婚し、5人の子供に恵まれました。私は彼女の息子です。10年ほど前に初めて彼女からこの話を聞き、私は彼女にもっと話を聞かせて欲しいと頼み、彼がアイダホ(注:ミニドカ強制収容所)にいる時の写真を見つける事が出来ました。彼女にその写真を見せたところ、彼女は「そう。この人よ。」と言いました。これで彼女の話は終わりです。」

1942DrRobertInManzanaar

アメリカの医者は往診をしませんが、ロバートは日本式の往診をしていたので珍しかったようです。戦後の一層辛い時期でも、誠実な仕事を通して信頼を築いて行ったロバートや日系人の姿が小さなエピソードから浮かび上がります。

ジョンさんからは地元オレゴニアン紙に載ったロバートの記事を沢山送って頂きました。ロバートはなかなか愛嬌のある人物だったらしく、よく新聞に載っていたそうです。

また、メールを交わす内にジョンさんのお祖母様がロバートと同じ小学校で1学年下だった事が判り、世間は狭いねと驚きました。

 

出典:Online Archives of California

Hospital Series. Scene in out patients clinic, where Jimmie has an injured thumb repaired. (L to R) Dr. Robert H. Shiomi, Niyoko Shitamae, nurse, Jimmie Shimizu, patient. — Photographer: Stewart, Francis — Hunt, Idaho. 12/10/42

写真右手がロバート。看護婦のシタマエ ニヨコ(ミヨコ?)さん、患者のジミー清水くんも健在であれば90、100歳でしょう。

 

2015-08-31 | ロバート汐見

アメリカ日系一世ロバート汐見の足跡(2)汐見一、13歳で単身海を渡る

汐見一は、佐島出身の父佐市と三原出身の母マンとの次男として1904年(明治37)10月1日に誕生した。1902年生まれの長男一郎との2人兄弟であった。

父佐市が渡米した10年後、弱冠13歳で単身横浜からシアトル行きの「しかご丸」に乗り、19日間の船旅の後1918年(大正7)6月10日、アメリカに入国した(写真1)。まだ電気も来ていなかった佐島から出て、ビルの立ち並ぶシアトルを目の当たりにしたはずである。

写真1 しかご丸乗船者リスト
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乗船者は広島、滋賀出身が目立つが、静岡、鹿児島、宮城と多彩である。

ちなみに「しかご丸」は1910年(明治43)の建造。当時は香港~シアトル/タコマ港経路で、途中神戸や横浜に寄港していた。中国人移民が禁止により大幅に減り、日本人の移民も制限が掛かりながらもまだ増えていた頃であろう。1920年以降はブラジル航路に変更されて多数のブラジル移民を運んだ。その後、二次大戦で陸軍に徴用され1943年10月に台湾沖で米潜水艦の雷撃により沈没したという*。

一は英語名をロバートとしてFailing Elementary Schoolに入学した。ポートランド市第4代市長にして実業家であったJosiah Failing氏が設立した名門校と言う事である**。入学して9か月後の6月16日付け地元紙オレゴニアンにロバートの記事が載っており、Memorial day記念の感想文コンテストにおいてthe best letter or compositionを受賞したとある。(写真2)ABCも判らない息子をいきなり現地校に入れた父、佐市はなかなかのスパルタ主義だったようだが、ロバートもよく頑張ったものである。

写真2
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「Second (prize) to Robert Shiomi, a Japanese boy, 14 years old, who, when he entered the school last September could not read, write, speak or understand the English language.」

昨年、汐見の家の屋根裏で1920年1月付けの卒業写真が見つかった。(写真3)身なりの良い白人少年少女40余名の中にただ一人アジア人の少年が口を結んで写っている。家を守る母、マンに送ったものだろう。ロバートは後から2列目、左から3人目と思われる。

写真3
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*しかご丸
しかご丸の船歴(大日本帝國海軍 特設艦船DATA BASEより)
http://www.geocities.jp/tokusetsukansen/J/A405/A405_011.htm

**フェイリング・スクール
建物は現在も保存され、Portland Community College(PCC)として使われている。
http://news.pcc.edu/2011/10/50th-failing-school/

 

2015-07-30 | ロバート汐見

アメリカ日系一世ロバート汐見の足跡(1)父、佐市の渡米

ロバート・ハジメ・汐見の父、汐見佐市は1881年(明治14年)、愛媛県越智郡佐島村(現上島町)に生まれた。戸籍謄本を見ると佐市は6歳で家督を相続しており、その父才吉は早逝したものと思われる。母ハナは女手一つで佐市と甚作の兄弟2人を育て、91歳の天寿を全うした。米寿祝いの石塔が八幡神社に奉納されている。佐市は23歳で三原市御調町出身の山田マンと結婚した。島の古老によれば、マンは三原から魚の行商に佐島を訪れて佐市に見初められたと言う。

写真119071002佐市入国票

1907年10月2日、佐市は妻子を日本に残しメキシコ経由でアメリカに入国した。佐市26歳、マン24歳、一郎6歳、次男一(はじめ)3歳の時である。いわゆる移民県の一つである広島に近いため、佐島を含む瀬戸内の島嶼部からの移民は当時珍しくなかった。(但し、16歳で最初の渡米をしたと思われる資料も見つかり、確認中)

日本からアメリカ本土への移民は1900年に年間1万人を超え軋轢も起こったため移民の制限が始まっており、1907年当時は西海岸からの入国が難しくなっていた。このためカナダやメキシコ回りでアメリカを目指す移民が増え、佐市もそれに倣ったものと思われる。メキシコの港は不明だが、バンクーバー行きの電車にのり、テキサス州のエルパソで入国した際の入国票が米国のアーカイブより発見された(写真1)。
当時、佐島からは鮭缶詰工場で栄えたバンクーバー郊外のスティーブストン*1に移住した家族などもおり、同郷の者と途中で別れたのかもしれない。

佐市がどのような経緯で日本人の少ないポートランドに落ち着いたのかは不明だが、汐見の家の納屋に残されていた、佐市の弟甚作のものと思われる1917年付の日記帳のアドレス欄に「兄様 c/o Panama Hotel No.52  N. 4th st. Portland, Oregon U.S.A.」とあり、寄宿先が明らかになった。(写真2) パナマホテルと言えばシアトルにある同名のホテルが有名だが、系列ホテルがポートランドにもあった様である*2。

写真2 1915DiaryCoverAndAddress

ポートランドにおける日本人出稼ぎ労働者は、当初鉄道工事や農作業に従事する場合が多かったが、1918年9月12日付の徴兵登録票にはPress Steel Box社の従業員(Labor)とあり(写真3)、1920年に実施された国勢調査では「Machinery Shop」における「Laborer」とある。英語を学び仕事をステップアップしていったのだろうか。

写真319180912一次大戦佐市登録票

佐市は1918年(大正7年)に次男の一を迎え、1920年代に十数年に亘る出稼ぎ生活を終えて日本に戻ったと思われる。米国で一生分稼いだとしたのか、帰国後は一切働かず、本などを読んで過ごしたと言う。納戸に残されている英語の小説などは佐市の蔵書だったのであろうか。離島の古民家の納屋から古いハードカバーの洋書が何冊も出て来たのには驚かされた。

佐市は90歳の1971年(昭和46年)1月20日に逝去した。私自身は曽祖父と3歳の頃に一度会ったきり、縁側に座っていた着物姿の老人の面影がおぼろに残るのみである。

*1 スティーブストン
参考書籍:「ステブストン物語―世界のなかの日本人」 鶴見和子著 中央公論社 1962年
また、この頃のバンクーバーにおける日系移民の暮らしぶりは2014年に「バンクーバーの朝日」(石井裕也監督)として映画化された。

*2 パナマホテル
当時日本の独身男性が定宿としており、地下1Fには日本式の銭湯「橋立湯」があった。今も当時のままの姿が残され1Fでカフェの営業が続けられている。2015年4月、米ナショナルトラストによりNational Treasureとして認定された。
http://www.preservationnation.org/who-we-are/press-center/press-releases/2015/panama-hotel.html

参考書籍:「あの日、パナマホテルで」 Jamie Ford 著、前田 一平訳 集英社 2011年
全米110万部のベストセラー。2010年アジア・太平洋文学賞受賞。

尚、ポートランドのパナマホテルも同じような宿だったと思われる。1922年2月1日付の地元紙Morning Oregonianに、日系人と思われるM.Tsugawa氏が、ポテトの栽培に適した農地50-150エーカーの賃借を求める広告が載っている。(写真4) 日雇い農夫として働きながら自営用の農地を探していたのだろう。パナマホテルは連絡窓口だったのかもしれない。津川氏のその後も興味深い。

写真419220201MorningOregonianPanamaHotelPortland

 

 

汐見の家とアメリカ日系移民一世ロバート汐見

明治の末年から戦前までに、何十万人もの日本人が移民として海外に渡りました。広島県は移民県として有名ですが、佐島からもカナダやアメリカへの出稼ぎが珍しくありませんでした。

ロバート・一(ハジメ)・汐見は、1904年に汐見の家で生まれ、13才で渡米して医師になったアメリカ日系移民一世です。

戦前からの日系移民排斥と戦時の強制収容を経験し、その歴史を繰り返すまいという想いからか、生涯を通して日本人留学生や文化事業への支援を惜しみませんでした。

佐島でもロバートを知る人は少なくなりましたが、彼の人生はグローバル化が進み地域紛争に悩む現代にあって、もう一度見直される価値があると思います。

これからご紹介させて頂きますので、古民家ゲストハウス 汐見の家と一緒に楽しんで頂ければ幸いです。
1942年5月2日「オレゴニアン新聞」抜粋

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「日系人の一時収容所であるパシフィック・インターナショナル・レセプション・センターの担当医に外科医ロバート汐見が着任した。」
写真左:ロバート汐見、写真右:病棟

 

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