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日系移民 (NIKKEI History)

戦後の日系カナダ人-佐島N邸3通の文書-

佐島N邸の屋根裏に大きなトランクがありました。

明治末年にバンクーバー郊外に移民していた家です。トロンコと呼んでいたそうです。

中にはセーター、ワンピース、着物や端切れが少し。そしてくしゃくしゃに丸められた紙が3枚ありました。

お借りして家で読み解いたところ、このような文書でした。

 

・戦後、日系カナダ人の強制送還措置に関するカナダ政府閣議決定抄訳(1945年12月15日)

・日系カナダ人の権利擁護運動資金募集の件(1945年12月24日)

・戦時に強制売却させられた資産等に対し賠償請求を行うための目録フォーム

 

カナダの日系人も第二次大戦前後に塗炭の苦しみを味わいました。N邸の方は強制送還により帰国されたのでしょうか。

くしゃくしゃに丸められ、それでも捨てられなかった3枚の紙に歴史を感じます。

 

運動資金募集の紙を読むと、カナダの複数の白人団体が日系人支援に取り組んでいることが判ります。

最近になり、ロバート汐見もシカゴを中心とした日系人排斥反対団体の尽力で早い段階で強制収容所を退去したと思われる資料が見つかりました。

アメリカやカナダ全土が日系人排斥に流れたのではなく、戦時にあっても多様な意見を許容していた両国の民主主義の懐の深さに感銘を受けます。

また、少数派であったろう白人の日系人支援団体のご尽力には感謝の念を禁じ得ません。

日系カナダ人の歴史はこちらから。

重厚なトロンコ。一般にはスチーマートランクと言われ、1870年代から1920年代に汽船や蒸気機関車での長旅に使われたそうです。

 

カナダ・ウォータールー市のドーリングトランク社製でした。

 

日系カナダ人の強制送還措置に関するカナダ政府閣議決定抄訳

 

在加同胞権利擁護資金募集に就いて

 

賠償請求目録フォーム

 

記録のため、全文を記載します。(旧字体です。)

 

<損害賠償請求目録フォーム>

移動前の住所
日本国籍者
帰 化 人 氏名
カナダ 生              街   番

一、帰国申請署名者      名、帰国申請署名取消者    名、

一、カストデアンに届け置きし(土地)の移動当時の最低見積價額
強制賣却に依り受けたる價額
右の差額に依る賠償金額

一、カストデアンに届け置きし(家屋)の移動当時の最低見積價額
強制賣却に依り受けたる價額
右の差額に依る賠償金額

一、カストデアンに届け置きし(家具及器具)の移動当時の最低見積價額
強制賣却に依り受けたる價額
右の差額に依る賠償金額

一、機械類の移動当時に於ける最低見積價額
強制賣却に依り受けたる價額
右の差額に依る賠償金額

一、カストデアンに届け置きし(漁船)の移動当時に於ける最低見積金額
強制賣却に依り受けたる價額
右の差額に依る賠償金額

一、カストデアンに届け置きし(漁具)の移動当時に於ける最低見積價額
強制賣却に依り受けたる價額
右の差額に依る賠償金額

一、カストデアンに届け置きし(自動車)の移動当時の最低見積價額
強制賣却に依り受けたる價額
右の差額に依る賠償金額

一、農工商林漁業の一ヶ年に於ける豫算收入と現在の收入との差額

一、労働に依る一ヶ年の豫算收入と現在の收入との差額

一、其の他の損害賠償

 

<在加同胞権利擁護資金募集に就いて>

▲全加奈陀に亘って在加同胞権利擁護の運動資金募集の目的
一、強制送還の防止

二、父母に伴はれて帰国する十六才未満の二世市民権の保留

三、強制移動に依って生じたる損害賠償

四、制束される現行諸規制の撤廃と完全なる市民権の要求

▲募集せむとする資金の性質・・・・・・・・・・・・右に依って既にトロント市の日本人委員會が目標額金一萬弗と定め其の募集に着手された事は十二月十五日ニューカナデアン紙報導の通りで資金の性質は全加共通のもので續々と白人間に於いて集めて呉れてゐるにも拘らず左等の白人に対して全りにもB.C.の日本人は無関心で居ると言ふ印象を與へたくない為一丸となって資金の募集に協力するのである

▲吾々同胞の窮境に同情して各方面に活躍して呉れてる左の白人團体がある
晩市・・・・・・・・・・◎コンソーテーチブ、コンシル   ◎ シビル リパチー、リーグ
トロント市    ◎コーポレーチブ コミチーオン、ジヤパテス、キヤナデアンス。
仝       ◎シビル、リバチー、リーグ
ウヰニペック市◎コーポレーチブ、コミチー、オン、ジヤパニーズ、キヤナデアンス、
仝      ◎シビル、リハチー、リーグ
全加CC、F党特にアングス マキニス代議士(晩市選出)

▲各地胞人間に於ける活動團体
◎トロント市の交友會並びに有志二世團体等は当然此の国に留まる事の出来る人達であるがこの運動に盡力されてオンタリオ州で三千弗を集める予定の由である。
◎ウヰニペックのデモクラシー擁護委員會は吾々西部カナダ各團体の本部として我々と緊密なる聯絡を執ってゐる。
◎タンメでは此の運動の急先鋒で常に当地の各團体とも歩調を合し既に金二千七百余弗の資金を募集してゐる。
◎スローカン地方・・・・・・ポプオフは全村を挙げて一斉に募集。取消をしてゐない五名が資金調達の役員に加って既に完了の域に達してゐる。
◎スロカン、シテーに於いても十二月二十日より着手してゐる。
◎ベイファアムも既に着手している筈で去る中央委員会に於てパプオフ同様に「全村より募集」と決定してゐた。
◎ロースベリー・・・何れも提携して行くと言ふ通信が来てゐる。
◎ニユデンバー・・・有志に於て援助される聲あり。

▲以上の如き目的とそれに対する各地有力白人團体の涙ぐましき援助と各地同胞の努力を考ふる時吾々は敢然起って協力、当然負ふべき義務の一端を果たすべき秋である
殊に目前に迫った吾々の問題!!夫れは帰国命令である。その準備として人身保護律(ヘビヤス、コーパス)に訴へて強制送還を防止する上に必須の資金ともなる訳である。

千九百四十五年十二月二十四日
レモンクリーク帰国申請取消者團体
各位

 

<日系カナダ人の強制送還措置に関するカナダ政府閣議決定抄訳>

▲一九四五、十二、十五日附議会の承認を求むる為キング首相より提出された閣会(プロビンス紙邦訳)

一、P.C.七三五五、この閣会は働労大臣が「帰国申請をなしたる日本臣民」「帰国の申請をなし一九四五、九、一日夜半までその取消を申込まなかった帰化日本人」「日本行きを申込み送還命令の下る以前にその取消を要求しないカナダ出生日本人」等を日本に送還する政府の方針を遂行する規定である

二、P.C.七三五六、前項七三五五号に依り送還される帰化人はカナダの地を離れると同時にカナダ市民或は英国臣民の権利を失ふことの規定にある。

三、P.C.七三五七、この條項は「カナダに於ける日本臣民及び帰化日本人の挙動忠誠」並び「戦時中カナダ政府にどれだけ協力したか否やを進言する為の三名からなる調査委員会を設定する規定である。

▲、キング首相は之を説明して

一、凡ての送還されるものはその所有財産(動産)及び現金を持って行く事が出来る。尚不動産其他自分の持って行く事を望まない物品は賣却するなら他の方法で處分する事が出来る。

二、日本に於い再定住する迄の費用として最小限度一人当り大人金二百弗小人金五拾弗を所持して帰す事を保証する。当人がこの額を所有しない場合政府がその不足額を補助する。

三、此の補助金はカストヂアンに保管してある敵国財産に依って補償するものである

▲忠誠調査委員會設定に就いて

一、政府は日本人の或る者がこの国に止まる事を欲しないと言ふ事を確かめたがる人は調査すべきである

二、この国に止まりたいと言ふ日本臣民及び帰化人の中でもその忠誠に疑いのある者は相当数ある

是等の者は充分且公平な調査が行はれるのである。

三、交戦中インターンされた者の中でもカナダ国家の利益の為送還したが良きや否に疑問のある者もある。

四、調査委員は日本臣民及び帰化人のみを調査しカナダ出生者は調査しない。

五、調査委員は九月一日夜半迄に取消しなかった帰化日本人を調査する権能がある。

調査委員は送還を進言する権能がある。

▲表面に於て「一九四五、九、一日夜半までに取消しなかった帰化日本人を送還する為の規定」と言ひ乍ら調査委員設定の㐧五項「九月一日夜半までに取消しなかった帰化日本人の調査」云々と説明してゐる處にP.C.七三五五、の裏がある事を見出さねばならぬ。

▲而もこの閣令未だ議会をパスしたものや否やは疑問であり議会はこの閣令を繞って相当の激論が戦はされた模様でありであり修正される可能性が充分にある訳である。更に過般議会を通過せる緊急権力法案中㐧三章G㐧十五(市民の籍を取上げ或は追放する権能を政府に附與する條項)の削除に依って日本人ナショナルに対してさへも纏めて追放する事は許されないものゝ如くである。進んで帰国するものでない限り送還する為には各個人を裁判して此の国に在留するに適しないと宣言しなければならないのである。(十二月十五日ニューカナデアン紙参照)

▲P.C.七三五五に依ればこの国生れの二世帰国命令の下る以前に取消さへすれば完全に止まることが出来るのであり、この運動は今後主力を「日本人ナショナルと帰化人」に注ぐことが出来る様になつたのは更に今後の運動を容易ならしめるものである。

▲キング首相が議会に提出した閣令を見て一世帰化人の取消運動が絶望の如く考ふるのは早計であつてこれから愈々本舞台に入る訳である。殊に二世帰国者並びに親同伴の十六才以下の二世の市民籍に関しては何ら言明されていない点にも注意せねばならぬ

アメリカ日系一世ロバート汐見の足跡(7)社会貢献-留学生支援-

ロバート汐見は継続的に日本人留学生を支援し、その数は30人を超えたと言う。
その留学生達も多くは鬼籍に入り詳細は判らないが、その1人は夏目漱石の孫、松岡陽子氏であった。

陽子氏は漱石の長女筆子と漱石門下の松岡譲との次女。戦後まもなくアメリカの奨学金を得て1年間オレゴン大学に留学した際にロバート汐見との知遇を得た。奨学期間が満了し帰国する直前にロバートから支援の申し出を得て留学を続け、後にオレゴン大名誉教授となった。陽子氏の著書「漱石の孫のアメリカ」*1に「こちらで成功しておられる親切な一世の医学博士」の助けで留学を続けられることになったと語られている。

ロバートは陽子氏の結婚式にも父親の代役で出席*2、生涯にわたり家族ぐるみの交流を続けた(写真1、2)。ちなみに陽子氏の息子、ケン・マックレイン氏には開業前より汐見の家を応援して頂いたが、2017年7月には家族3人で汐見の家に2泊して頂き、先代からの旧交を温める僥倖に恵まれた(写真3)。ロバートの渡航百年にあたる2018年には筆者がオレゴンを訪問する計画を立てている。

写真1
YokoMcClainWedding
結婚式。左からマックレイン氏両親、新郎・ロバートマックレイン、新婦・松岡陽子、汐見夫妻。1956年12月22日(ケン・マックレイン氏提供)

写真2
YokoMcClain_RobertShiomi
松岡陽子氏とロバート汐見。オレゴン大学付属ジョーダン・シュニッツァー美術館前で。1996年頃(ケン・マックレイン氏提供)

写真3
2017-07-14 10.21.35
佐島から今治に向かう船で寛ぐケンさんご家族。妻のマリアさんはエルサルバドル出身の医師。息子のアレハンドロくんのミドルネームは漱石で、日本の親戚からは「ソーセキくん」、「ソーセキちゃん」と呼ばれているという。汐見の後は道後温泉を経て、東京の叔母様たちに会いに行かれた。

尚、ロバートはかの緒方貞子氏*3を「世話した」と懐かしく語っていた。外交官であった緒方氏の父、中村豊一氏は1932年(昭和7)10月より3年間ポートランドの領事館に駐在し*4、その間、ロバートと公私にわたる交流があったと言う*5。

当時5歳の貞子嬢は今もリベラルな教育で知られる幼稚園から高校までの一貫校、私立ケイトリン・ヒルサイド・スクール(現ケイトリン・ゲーベル・スクール)に入学したが、ロバートはその後2人の娘を同じ学校に通わせ、東京に住んでいた姪には緒方氏と同じ聖心女子大を勧める惚れ込み振りであった。さぞ聡明で魅力的な少女であった事だろう。

OREGON Encyclopediaには同校の著名な卒業生として緒方氏の名前が記載されているが、氏が実際に在籍したのは8才までのわずか3年間である。推測に過ぎないが、戦後、貞子嬢が同校に復学出来るようロバートが学籍を維持していたのかもしれない。同校に確認したところ、高校の卒業生として緒方氏(中村貞子)が記録されている事は間違い無いということである。

1976年11月25日付オレゴニアン紙(写真4)によると、ロバート汐見は長年にわたる留学生や文化団体への支援など日米文化交流への貢献をもって叙勲を受けている。日本の身内には殆ど連絡をせず、姪である筆者の母もこの記事を見るまで知らなかった。あっさりしたものである。

 

写真4
1976 11 28 Dr Shiomi award from Emperor2

*1 「漱石の孫のアメリカ」 P17 松岡陽子マックレイン著 新潮社 1984年
*2 Celebration of Life: YokoMcClain.org  ケン・マックレイン氏が管理する松岡陽子氏のメモリアルサイト。
*3 元国連高等弁務官、JICA特別顧問。褒め称え尽くせない偉人。知らない方はググって下さい。
*4 「戦争の終わらないこの世界で」 緒方貞子著 NHK出版 2014年
*5 筆者の母談。ポートランド日本領事に提出したロバートと妻ルビー(日本名幸子)の婚姻届の受領者が中村豊一氏である。日系人の少ないポートランドで、幼い子供を持つ外交官一家が、世代が近く往診もする日本人医師と親しい関係であっても不思議ではなかろう。ちなみに大胆にもJICA経由で照会したところ、「お名前は覚えているが何分幼い頃のことなので」と秘書の方よりご返信を頂いた。お手数をお掛けしたことをこの場を借りてお詫び申し上げます。

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アメリカ日系一世ロバート汐見の足跡(6)社会貢献-文化財寄贈-

アメリカには寄付は富裕層の義務とする文化があり、節税にも繋がるが、ロバート汐見の社会貢献はその範疇を超えている印象がある。

ロバートの姪である筆者の母より、「継続的な寄付をしていると「今年は無し」と言えないので借金しても寄付をする年がある。」とロバートがぼやいていた話を聞いた事があったが、その内容は全く判らなかった。どうやら大きく3種類に分かれ、一つは留学生支援、二つ目はオーケストラやオペラ団への支援、三つ目が文化財の寄贈と言うことが判って来たが、この度オレゴン大学併設Jordan Schnitzer Museum of Art (JSMA)よりロバート汐見の寄贈リストをご提供頂いた。資料としてリストを記載させて頂く。所蔵品名は英文からの翻訳のため必ずしも妥当ではない可能性がある点、ご容赦願いたい。

1. ガンダーラ仏 仏頭 アフガニスタン 2世紀半
Head of Buddha1

2. 聖観音菩薩立像 日本 平安時代
JPN11-6_th

3. 阿弥陀如来図 日本 南北朝
JPN32-2_th

4. 十三仏図 日本 南北朝
JPN32-3_th

5. 菅原道真坐像 土佐経隆 日本 南北朝
JPN32-4_th

6. 行基図 日本 桃山時代
JPN32-6_th

7. 琳派 蓮図 日本 江戸時代

8. 月入霧中烏鳴図 中国 黃磊生 昭和時代

9. 洛中工芸図 日本 狩野 安信 17世紀

10. 釈迦牟尼十六羅漢図 日本 室町時代

11. 稲作四季耕作図屏風 日本 狩野之信(雅楽助)室町または桃山時代

12. 芭蕉芍薬図屏風 日本 桃山時代

13. 松梅図屏風 日本 桃山時代

14. 龍虎図屏風 日本 岸駒 19世紀

15. 吉原廓図屏風 日本 土佐派 17世紀

16. 本草博物誌 日本 岸連山 19世紀

17. 阿弥陀来迎図 日本 鎌倉時代

18. 清国洛中洛外図屏風 日本 石田幽汀 18世紀

19. 鶴図屏風 日本 岸駒 19世紀

20. 龍虎図 日本 岸連山 19世紀
KISHI Renzan

21. 洛中洛外図屏風 日本 17世紀
1998-7-1_th 1998-7-2_th

ハイライトはロバート晩年の1994年に寄贈された21. 洛中洛外図屏風である。筆者はこの屏風の存在をオレゴン大学の修士論文のアーカイブで知った。著者のHeather Hanson氏とはLinkedInで繋がり何回かヒアリングをさせて頂いた。ネットの恩恵である。
Ms. Hansonの修士論文

JSMAのHPより所蔵品の検索も可能。

 

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アメリカ日系一世ロバート汐見の足跡(コラム2)同郷 田中宇八氏の足跡

今回はロバート汐見と同じ佐島出身の田中宇八さんをご紹介させて頂きます。

島通いも1年近く経った頃、道ですれ違ったおばあさんに「暑いですね。」と声を掛けたら、「汐見のもんかいね。汐見のじいさんは私の父親とポートランドに行ったんよ。」と教えて頂きました。初耳です。佐島からは当時英領カナダ・バンクーバー郊外のスティーブストンへの移民が多かったのですが、田中宇八さんとロバートの父佐市の2人はポートランドを選んだそうです。宇八さんは料理人として、佐市は機械の販売員として生業を立てました。

アメリカのルーツ探しサイト、アンセストリー・ドットコム(Ancestry.com)で調べたところ、宇八さんは1881年(明治14年)生まれで佐市と同い年でした。1897年に神戸からモンマスシャー号に乗り6月9日にポートランドに入港しています。佐市の入国記録は1907年以前より遡れませんが、もしかしたらこの時も同行していたのかもしれません。であれば当時2人は16歳でした。
宇八さんはその後何度も日米を行き来しています。小さな島から往復一ヶ月の船旅を繰り返し、最後の旅は77歳の高齢だった事に驚きます。

1917年11月5日 シアトル入港。「ふしみ丸」で神戸より。35歳。
1920年4月2日 シアトル入港。「あふりか丸」で横浜より。38歳。
1935年6月25日 シアトル入港。「ジェファーソン大統領号」で神戸より。55歳。
1957年6月3日 ポートランド入港「ようわ丸」にて。77歳。

宇八さんとロバート一家との記念写真が残されています。ロバートは父の佐市を頼って13歳でポートランドに行きましたが、実の父よりも面倒を見てくれたと宇八さんを慕い、帰国する度に田中家に立ち寄り、亡くなられてからもお墓参りを欠かさなかったという事です。

田中宇八氏とロバート一家

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ロバート汐見を調べる内に、少しずつ島の移民の歴史も判って来ました。佐島や近隣の島の移民の歴史は忘れられつつあり、実際に移民を経験した方やそのご家族も高齢化が進んでいます。今後、何らかの形で纏めてホームページなどに残せたらと思います。

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アメリカ日系一世ロバート汐見の足跡(5)アメリカン・ドリーム

戦後、ポートランドに戻ってからのロバート汐見の人生はアメリカン・ドリームを体現するものであった。

ロバートは名医として知られ、飛行機で診察を受けに来る患者もいたと言う。自宅兼医院を構えたワシントン・パークの東側、サウス・ビスタ・アベニューは、当時メイド以外の有色人種が居住を許されない地域であった。どの様な経緯でロバートがその地域に住居を購入する事が出来たのかは分からないが、ポートランドでも長く続いた人種差別の壁を破った画期的な出来事であったと言う*。この家は今でもポートランドにあり、不動産売買サイトで外観から室内等が見られたが、裏庭には日本より移植したと思われる大きな枝垂れ桜があり、ロバートの望郷の念を感じる。花盛りには観光バスが横付けしたと言う。(写真1)

写真1 裏庭の枝垂れ桜
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娘のスーザンとキャロルはリベラルな教育方針で知られるケイトリン・ゲイブル・スクールに通った。学校年鑑に写るスーザンは日本人の面立ちながら自由闊達なアメリカンガールの表情が興味深い。(写真2)次女のキャロルはスタンフォード大学に進学し、現在はカリフォルニア郊外のロス・アルトスで夫君と暮らしている。

写真2 ケイトリン・ゲイブル・スクール1958年学校年鑑より(前列左から2番目がスーザン)
susan1958catlingable_specialcommittee

尚、ロバートはオレゴン大学への母校愛が深く、アメリカン・フットボールの試合には家族揃ってスクールシンボルの白いカーネーションと緑の”O”を誇らしく襟にあしらい、愛車の1949年型パッカードに乗って大学のあるユージンまで繰り出したと言う。(写真3)

写真3 1949年型パッカード(Wikipedia「パッカード」より引用)
1949packard

後にロバート一家は近隣のサウスウェスト・パークプレイスに自宅を移した。男爵邸を移築したという。次女キャロルより自邸での結婚式の写真をご提供頂いた。(写真4)家族ぐるみの交遊があり、結婚式にも出席した夏目漱石の曾孫ケン・マックレイン氏は「数多くの列席者と自庭の噴水からリビングルームまで続く長いバージンロードは、教会か大きな披露宴会場の様だった。」と語る。
写真4
1968cookieswedding

ロバートは余暇の多くを庭仕事に費やし、よく庭師に間違われたと言う。

*「Robert Shiomi」 Isaac Laquedem ブログ 2004年5月9日付
http://isaac.blogs.com/isaac_laquedem/2004/05/robert_shiomi.html

**住所は1111 SW Vista Avenue、後に転居した自邸は2370 SW Park Placeである。

 

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2015-12-12 | ロバート汐見

アメリカ日系一世ロバート汐見の足跡(4)日系人強制収容

1930年にロバート汐見はオレゴン大学医学部を卒業、ニューヨークでインターン生活を送り前途は洋々であった。しかし時代は戦争に向かって進み始め、1931年に満州事変、1937年に日中戦争が始まった。日米関係がいよいよ悪化する1941年5月23日、ロバートは汐見奨学基金を設立し、支部長を務めていた日系人協会(JACL)として地元紙オレゴニアンでリリースを行った。(写真1)

「ヨーロッパ系アメリカ人と日系アメリカ人との相互理解のため、オレゴン州立大及びオレゴン大学の学生各1名に奨学金各100ドルを供与する。」
「奨学生の人種は一切問わない。奨学生に望むことはただ一つ。両者の相互理解に寄与する努力を行うこと。」

6月10日応募締切の奨学金が誰に与えられたのかは判らないが、歴史が示す通りロバートの私財を投じた努力も空しく同年12月8日に太平洋戦争が勃発した。

写真1
1941 05 23 Dr Shiomi ScholarshipsS

Remember Peal Harborのスローガンの下、日本人排斥運動は苛烈を極め、1942年2月のルーズベルト大統領令により日本人の強制収容が始まった。16ヶ所に設置された一時収容所の内、ポートランド日本人収容所の担当医師としてロバート汐見が着任した記事が同年5月23日付けのオレゴニアン紙に掲載されている。5葉の写真には、独身男性用ドミトリー(右下)、食堂と取材をする新聞記者(左下)、所内病院(右上)、ロバート汐見(中央上)、そして戦時国債購入キャンペーンをする当時の人気歌手ケイト・スミスの姿(左上)がある。(写真2)

写真2
1942 05 02 Dr Shiomi Evacuation Reception
日系人収容記録を追うと、ロバートは、1942年9月9日に妻ルビー(幸子)と生後わずか6カ月の娘スーザンと共にオハイオ州のミニドカ日本人収容所に移転、翌1943年1月26日にはカリフォルニア州のマンザナー収容所に移転した。(写真3、4) 更に1943年5月5日にロバート1人がシカゴに*、同年6月6日にルビーとスーザンがコロラド州デンバーに退去している。この辺りの経緯は判らない。

ロバートは生涯ほとんど収容所時代の事を語らなかったと言う。ミニドカ収容所での写真がアーカイブに残されており、ロバートが少年の治療をする姿が残っている*。写真集には明るく笑う日本人の姿が映っているが、トランク一つで収容され、米軍に命を委ねて暮らす日々は想像し難い。

写真3
minidoka日系人収容記録
ミニドカ収容所 日本人収容記録。収容者番号、氏名、生年月日、性別、家族番号、既婚・独身の別、収容日、退去日などが記載されている。

写真4
1942DrRobertInManzanaar
ミニドカ収容所で少年の治療をするロバート汐見

ロバート汐見がポートランドに戻り、医院を再開したと言う小さな記事がオレゴニアン紙に掲載されたのは、終戦から9ケ月経った1946年5月25日であった。(写真5)

写真5
19460325OregonianDrRobertReturnsToPortland
S.W.Vista Avenueはポートランドの高級住宅街で、当時は有色人種の居住が法律で禁止されていた。
記事は小さいが、ポートランドでの人種差別の壁を破る大きな出来事であった。

その後、ロバートはポートランドのPhysicians and Surgeons Hospitalにも勤務し、60歳を過ぎるまで在籍した。

*シカゴのノーザン大学に専門性の高い胸部外科医として着任した。ポートランド在住で、ロバートと同じミニドカ収容所に収容されたニュートン・ウェスリー(上杉)は、教会と市民による日系学生収容反対運動団体JASRC(the Japanese American Student Relocation Council)の活動により、1942年の内に収容所を退去しシカゴのアーラム大学(Earlham college)の籍を得た。(妻と幼い2人の子供は終戦まで収容された。)ロバートの早期退去は氏の尽力があったのかもしれない。上杉氏は1917年10月1日生まれで、ロバートと同じ誕生日の13歳年下である。コンタクトレンズの普及に貢献し、ポートランドの名士であったと言う。アメリカでの日系人排斥に反対する市民運動も興味深く、機会があれば更に調べたい。
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