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日系移民 (NIKKEI History)

アメリカ日系一世ロバート汐見の足跡(6)社会貢献-文化財寄贈

アメリカには寄付は富裕層の義務とする文化があり、節税にも繋がるが、ロバート汐見の社会貢献はその範疇を超えている印象がある。

ロバートの姪である筆者の母より、「継続的な寄付をしていると「今年は無し」と言えないので借金しても寄付をする年がある。」とロバートがぼやいていた話を聞いた事があったが、その内容は全く判らなかった。どうやら大きく3種類に分かれ、一つは留学生支援、二つ目はオーケストラやオペラ団への支援、三つ目が文化財の寄贈と言うことが判って来たが、この度オレゴン大学併設Jordan Schnitzer Museum of Art (JSMA)よりロバート汐見の寄贈リストをご提供頂いた。資料としてリストを記載させて頂く。所蔵品名は英文からの翻訳のため必ずしも妥当ではない可能性がある点、ご容赦願いたい。

1. ガンダーラ仏 仏頭 アフガニスタン 2世紀半

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2. 聖観音菩薩立像 日本 平安時代

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3. 阿弥陀如来図 日本 南北朝

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4. 十三仏図 日本 南北朝

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5. 菅原道真坐像 土佐経隆 日本 南北朝

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6. 行基図 日本 桃山時代

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7. 琳派 蓮図 日本 江戸時代
8. 月入霧中烏鳴図 中国 黃磊生 昭和時代
9. 洛中工芸図 日本 狩野 安信 17世紀
10. 釈迦牟尼十六羅漢図 日本 室町時代
11. 稲作四季耕作図屏風 日本 狩野之信(雅楽助)室町または桃山時代
12. 芭蕉芍薬図屏風 日本 桃山時代
13. 松梅図屏風 日本 桃山時代
14. 龍虎図屏風 日本 岸駒 19世紀
15. 吉原廓図屏風 日本 土佐派 17世紀
16. 本草博物誌 日本 岸連山 19世紀
17. 阿弥陀来迎図 日本 鎌倉時代
18. 清国洛中洛外図屏風 日本 石田幽汀 18世紀
19. 鶴図屏風 日本 岸駒 19世紀
20. 龍虎図 日本 岸連山 19世紀

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21. 洛中洛外図屏風 日本 17世紀

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ハイライトはロバート晩年の1994年に寄贈された21. 洛中洛外図屏風である。筆者はこの屏風の存在をオレゴン大学の修士論文のアーカイブで知った。著者のHeather Hanson氏とはLinkedInで繋がり何回かヒアリングをさせて頂いた。ネットの恩恵である。
Ms. Hansonの修士論文

JSMAのHPより所蔵品の検索も可能。

アメリカ日系一世ロバート汐見の足跡(はじめに)

汐見家は佐島では古い家だと言われていますが詳細は判りません。江戸末期の過去帳では「塩見」とあるので、佐島の古代からの産業であった製塩に携わっていたのかもしれません。

家の再生がきっかけで御先祖調べを始め、有名無名を問わず波乱万丈な人生があったことを知りました。中でもアメリカ日系移民一世としてポートランドで生涯を終えた大叔父ロバート・一・汐見の劇的な人生に驚かされ、少しずつですが記録に残す事にしました。

その後、明治後半から大正年間に佐島から少なくない人数が北米に移民していた事も知り、いずれは汐見に留まらず佐島の移民史として纏めたいと思います。

2016年4月29日
西村 暢子

アメリカ日系一世ロバート汐見の足跡(コラム2)同郷 田中宇八氏の足跡

今回はロバート汐見と同じ佐島出身の田中宇八さんをご紹介させて頂きます。

島通いも1年近く経った頃、道ですれ違ったおばあさんに「暑いですね。」と声を掛けたら、「汐見のもんかいね。汐見のじいさんは私の父親とポートランドに行ったんよ。」と教えて頂きました。初耳です。佐島からは当時英領カナダ・バンクーバー郊外のスティーブストンへの移民が多かったのですが、田中宇八さんとロバートの父佐市の2人はポートランドを選んだそうです。宇八さんは料理人として、佐市は機械の販売員として生業を立てました。

アメリカのルーツ探しサイト、アンセストリー・ドットコム(Ancestry.com)で調べたところ、宇八さんは1881年(明治14年)生まれで佐市と同い年でした。1897年に神戸からモンマスシャー号に乗り6月9日にポートランドに入港しています。佐市の入国記録は1907年以前より遡れませんが、もしかしたらこの時も同行していたのかもしれません。であれば当時2人は16歳でした。
宇八さんはその後何度も日米を行き来しています。小さな島から往復一ヶ月の船旅を繰り返し、最後の旅は77歳の高齢だった事に驚きます。

1917年11月5日 シアトル入港。「ふしみ丸」で神戸より。35歳。
1920年4月2日 シアトル入港。「あふりか丸」で横浜より。38歳。
1935年6月25日 シアトル入港。「ジェファーソン大統領号」で神戸より。55歳。
1957年6月3日 ポートランド入港「ようわ丸」にて。77歳。

宇八さんとロバート一家との記念写真が残されています。ロバートは父の佐市を頼って13歳でポートランドに行きましたが、実の父よりも面倒を見てくれたと宇八さんを慕い、帰国する度に田中家に立ち寄り、亡くなられてからもお墓参りを欠かさなかったという事です。

田中宇八氏とロバート一家

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ロバート汐見を調べる内に、少しずつ島の移民の歴史も判って来ました。佐島や近隣の島の移民の歴史は忘れられつつあり、実際に移民を経験した方やそのご家族も高齢化が進んでいます。今後、何らかの形で纏めてホームページなどに残せたらと思います。

 

2016-03-13 | ロバート汐見

アメリカ日系一世ロバート汐見の足跡(5)アメリカン・ドリーム

戦後、ポートランドに戻ってからのロバート汐見の人生はアメリカン・ドリームを体現するものであった。

ロバートは名医として知られ、飛行機で診察を受けに来る患者もいたと言う。自宅兼医院を構えたワシントン・パークの東側、サウス・ビスタ・アベニューは、当時メイド以外の有色人種が居住を許されない地域であった。どの様な経緯でロバートがその地域に住居を購入する事が出来たのかは分からないが、ポートランドでも長く続いた人種差別の壁を破った画期的な出来事であったと言う*。この家は今でもポートランドにあり、不動産売買サイトで外観から室内等が見られたが、裏庭には日本より移植したと思われる大きな枝垂れ桜があり、望郷の念を感じる。花盛りには観光バスが横付けしたと言う。(写真1)

写真1 裏庭の枝垂れ桜
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娘のスーザンとキャロルはリベラルな教育方針で知られるケイトリン・ゲイブル・スクールに通った。学校年鑑に写るスーザンは日本人の面立ちながら自由闊達なアメリカンガールの表情が興味深い。(写真2)次女のキャロルはスタンフォード大学に進学し、現在はカリフォルニア郊外のロス・アルトスで夫君と共にITに関わる仕事をしている。

写真2 ケイトリン・ゲイブル・スクール1958年学校年鑑より(前列左から2番目がスーザン)
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ちなみにケイトリン・ゲイブル・スクールは元国連難民弁務官、現JICA特別顧問の緒方貞子氏の母校でもある。父君の中村豊一氏が1932-1935年までポートランド総領事を務めた際に当時5-8歳の貞子嬢が通ったのが同校の前身であるケイトリン・ヒルサイド・スクールである。ロバートは中村家と懇意であったと言うが、自分の娘を貞子嬢と同じ学校に入れ、東京に住む姪(西村の母)には氏の母校である聖心女子大学を勧めたと言うので惚れ込みようが察せられる。さぞ聡明な少女であった事だろう。ロバートは「貞子の世話をした。」と後々まで懐かしく語っていたと言うが事実関係は判らない。緒方氏の記憶と異なり、学校側の記録には1946年まで学籍が残っているため、あるいは学籍の維持に一方的な骨折りをしていたのかもしれない。

また、ロバートはオレゴン大学への母校愛が深く、アメリカン・フットボールの試合には家族揃ってスクールシンボルの白いカーネーションと緑の”O”を誇らしく襟にあしらい、愛車の1949年型パッカードに乗って大学のあるユージンまで繰り出したと言う。(写真3)

写真3 1949年型パッカード(Wikipedia「パッカード」より引用)
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後にロバート一家は近隣のサウスウェスト・パークプレイスに自宅を移した。男爵邸を移築したという豪邸である。次女キャロルより自邸での結婚式の写真をご提供頂いた。(写真4)家族ぐるみの交遊があり、結婚式にも出席した夏目漱石の曾孫ケン・マックレイン氏は「数多くの列席者と自庭の噴水からリビングルームまで続く長いバージンロードは、教会か大きな披露宴会場の様だった。」と語る。
写真4
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ロバートは余暇の多くを庭仕事に費やし、よく庭師に間違われたと言う。

*「Robert Shiomi」 Isaac Laquedem ブログ 2004年5月9日付
http://isaac.blogs.com/isaac_laquedem/2004/05/robert_shiomi.html

**住所は1111 SW Vista Avenue、後に転居した自邸は2370 SW Park Placeである。複数の不動産サイトやGoogle Mapで閲覧可能。

 

2015-12-12 | ロバート汐見

アメリカ日系一世ロバート汐見の足跡(4)日系人強制収容

1930年にロバート汐見はオレゴン大学医学部を卒業、ニューヨークでインターン生活を送り前途は洋々であった。しかし時代は戦争に向かって進み始め、1931年に満州事変、1937年に日中戦争が始まった。日米関係がいよいよ悪化する1941年5月23日、ロバートは汐見奨学基金を設立し、支部長を務めていた日系人協会(JACL)として地元紙オレゴニアンでリリースを行った。(写真1)

「ヨーロッパ系アメリカ人と日系アメリカ人との相互理解のため、オレゴン州立大及びオレゴン大学の学生各1名に奨学金各100ドルを供与する。」
「奨学生の人種は一切問わない。奨学生に望むことはただ一つ。両者の相互理解に寄与する努力を行うこと。」

6月10日応募締切の奨学金が誰に与えられたのかは判らないが、歴史が示す通りロバートの私財を投じた努力も空しく同年12月8日に太平洋戦争が勃発した。

写真1
1941 05 23 Dr Shiomi ScholarshipsS

Remember Peal Harborのスローガンの下、日本人排斥運動は苛烈を極め、1942年2月のルーズベルト大統領令により日本人の強制収容が始まった。16ヶ所に設置された一時収容所の内、ポートランド日本人収容所の担当医師としてロバート汐見が着任した記事が同年5月23日付けのオレゴニアン紙に掲載されている。5葉の写真には、独身男性用ドミトリー(右下)、食堂と取材をする新聞記者(左下)、所内病院(右上)、ロバート汐見(中央上)、そして戦時国債購入キャンペーンをする当時の人気歌手ケイト・スミスの姿(左上)がある。(写真2)

写真2
1942 05 02 Dr Shiomi Evacuation Reception
日系人収容記録を追うと、ロバートは、1942年9月9日に妻ルビー(幸子)と生後わずか6カ月の娘スーザンと共にオハイオ州のミニドカ日本人収容所に移転、翌1943年1月26日にはカリフォルニア州のマンザナー収容所に移転した。(写真3、4) 更に1943年5月5日にロバート1人がシカゴへ、同年6月6日にルビーとスーザンがコロラド州デンバーに退去している。
この辺りの経緯は判らない。ロバートは生涯ほとんど収容所時代の事を語らなかったと言う。マンザナー収容所の写真がアーカイブに残されており、ロバートが少年の治療をする姿が残っている*。写真集には明るく笑う日本人の姿が映っているが、トランク一つで収容され、米軍に命を委ねて暮らす日々は想像し難い。

写真3
minidoka日系人収容記録
ミニドカ収容所 日本人収容記録。収容者番号、氏名、生年月日、性別、家族番号、既婚・独身の別、収容日、退去日などが記載されている。

写真4
1942DrRobertInManzanaar
*マンザナー収容所で少年の治療をするロバート汐見

ロバート汐見がポートランドに戻り、医院を再開したと言う小さな記事がオレゴニアン紙に掲載されたのは、終戦から9ケ月経った1946年5月25日であった。(写真5)

写真5
19460325OregonianDrRobertReturnsToPortland
S.W.Vista Avenueはポートランドの高級住宅街で、当時は有色人種の居住が法律で禁止されていた。
記事は小さいが、ポートランドでの人種差別の壁を破る大きな出来事であった。

2015-11-26 | 佐島からの移民

佐島・故田坂伊三郎氏の百年前の炭窯をカナダ・ソルトスプリング島で発見

カナダ国立日系博物館の会報「NIKKEI IMAGE」より転載します。

寄稿:チャック田坂氏

国立日系博物館・文化センター発行「NIKKEI IMAGE2015年夏号 Vol.20 No.2 *1

和歌山県の南紀州はウバメガシを原料にした備長炭で知られる。備長炭は堅く長時間燃え続けるため高品質とされている。多数の紀州出身者がカナダに移民し、この炭焼の技術が役に立った。漁の季節が終わると彼らはガルフ諸島に渡り、冬の生業として炭を焼いた。行き先はメイン島やガリアーノ島、サターナ島であった。

―――

「古きものは甦る。」とはことわざだったろうか。何千年も前から和歌山県の職人は、サムライの刀に鍛えられる最高の鋼を作る炭を焼いて来た。和歌山の熟練した芸術家は将軍が望む人材であった。彼らは鉄を溶かして武器を作るための最高の炭を焼く技を持ち、且つ陶器を量産する技術も有していた。

電気とガスが普及し、炭焼き技術は過去のものになった。しかし、今この炭焼技術が再び脚光を浴び、鰻や焼き鳥を焼く高級料理人に広く使われるようになっている。ほぼ無煙で高熱を発するためである。

和歌山県の南紀州はウバメガシを原料にした備長炭で知られる。備長炭は堅く、長時間燃え続けるため高品質とされている。多数の紀州出身者がカナダに移民したが、この炭焼の技術が役に立った。漁の季節が終わると彼らはガルフ諸島に渡り、冬の生業として炭を焼いた。移動先はメイン島やガリアーノ島、サターナ島であった。ガルフ諸島には日系人の移植地が点在し、市場園芸が盛んであった。このため、漁師たちはこの地域の入植者から製炭に適した樹木を求めたのである。炭はステベストン(スティーブストン)の魚缶詰工場で、缶をハンダ付けするために使われた。スナップ式の缶が発明されると、その普及と共に炭の需要は失われた。

古来からの炭焼きを学んだ時、私の祖父、田坂伊三郎の事を思わずに居られなかった。私の祖父も漁の無い季節に炭を焼いていたのだ。家族を支える為のなりわいに尊敬の念を禁じえない。

祖父は和歌山出身の友人から炭焼を習った。日本に居た時、祖父は彼の父親が所有する貨物船の船長であった。彼の船が和歌山県の三尾村*2沖で難破した時に、村人は総出で彼を助け、薪を焚き、食料や乾いた衣服を提供した。彼は村人の厚情に生涯恩義を忘れなかったが、この災害をきっかけに伊三郎が三尾村で得た多くの友人の何人かと、後日ブリティッシュコロンビアのステベストンで再会を果たしたのである。伊三郎の本業は漁師だったが、漁の無い季節にはソルトスプリング島に戻り炭を焼いた。

1900年代初頭、アジア人は王領*3の土地を買う事が出来なかった。伊三郎は地元の鍛冶屋、マカフィー氏と友人になり取引をした。つまり、田坂氏は炭の原料になるハンノキを伐るためソルトスプリング島の土地を300エーカー購入する。引き換えにマカフィー氏は炭を仕入れる権利を得る。こうして現在のモウアット公園内に2つの炭窯が築かれた。

ビクトリア州の炭窯再生の達人、スティーブ・ネムティン氏の説明によると、伊三郎の最初の仕事は長さ6m、幅3m、深さ2mの穴を掘る事だった。次はその穴の内側に石壁を築く。ガルフ諸島の他の窯と異なり、伊三郎は窯に改良を加えた。和歌山の窯は概ね子宮か涙粒の形をしているが、祖父は窯を拡張して茸のような形に作り上げた。伊三郎は窯に3ヶ所の排気口を開け、窯に入る酸素の量を調節し易くした。次に祖父は地面にヒマラヤ杉の板を並べた。一列は南北に、もう一列は東西に。そのあと、彼はハンノキを同じ寸法に切り揃え、窯の中に立てて並べた。次に窯を覆う。垂直に立てられた原木は小枝や枝で覆われ、窯は空気を遮断するために砂で固められた。伊三郎は次に窯の入り口から着火し、火入れを行った。これは完了するまでに大変な時間を使う仕事で4-5日間を要し、原木が着火しない様に終日気を付けなければならない。

伯母のマスエと伯父の大正の子供の頃の手伝いは、窯から出る煙を見張る事だった。全ての作業が終わった後、祖父は窯を開けて窯の入り口から熊手で炭を掻き出した。その時の炭の跡が発見されている。マスエは(炭を詰める)米袋が一杯になると袋の端を縫い合わせた。伊三郎は熟練の船長だったので、自前の漁船で炭200ポンド(約90kg)をウォルター湾からビクトリア州の石鹸工場まで運んだ。一袋毎に30セントが支払われ、この副業によって彼は冬の間も大家族を養う事が出来たのである。

田坂伊三郎とヨリエは1905年にソルトスプリングに移転した。ステベストンで長男の一が腸チフスで亡くなったためである。伊三郎は友人からソルトスプリングは水が良いと聞いたのだろう。14人の子供がソルトスプリング島のガンジスで生まれた。耕二、蟻三、佐中、従道、マスエ、大正、二三、フサ、亥子、千鶴子、京、武夫、花、そして八郎である。長男長女の増子と一、1929年に生まれた最年少の末子はステベストンで生まれた。田坂家は一旦ステベストンに戻り、1935年に下から4人の子供を伴って日本に帰った。

約100年を経て、祖父の2つの炭窯が発見された。村上(岡野)喜美子さん*4と娘のローズ、そしてステファン・ネムティン氏が窯の場所を覚えていたのである。
2014年にローズが窯の再生プロジェクトを開始し、日本庭園協会理事のカネサカ ルミ氏は寄付寄贈の募集に奔走した。ビクトリア首都地域ソルトスプリング公園・レクリエーション委員会(CRD-PARC*5)はガリアーノ島のステファン・ネムティン氏の支援依頼に応え、大いなる情熱をもって本件を後押しした。ステファンと協会のスタッフにより炭の欠片やクレオソート、窯や圧縮された砂の結晶プレートが発見された時は大変な興奮に包まれた。皆、砂場の子供のように働いた。大型の釜が先に再生され、続いて小型の釜に取り掛かる予定である。
ビクトリア首都地域ソルトスプリング公園・レクリエーション委員会、地域ボランティアの皆様により本件が実ることが出来た事を、田坂家一同に代わり篤く御礼申し上げる。窯の完成は7月頃を予定している。

以 上
*1 NIKKEI IMAGE:
原文 Isaburo Tasaka’s 100-year old Charcoal Kiln found on Salt Spring Island
http://centre.nikkeiplace.org/wp-content/uploads/2015/06/NI2015_Summer-FINAL.pdf
8-9ページ参照

(参考記事)
ソルトスプリング日本庭園リリース 2015/11/29にオープニングイベント開催
http://www.saltspringjapanesegarden.com/about-the-restoration

現地説明会の動画
https://www.youtube.com/watch?v=HQmHVu2uhKo

*2 三尾村:
和歌山県日高郡美浜町三尾。19世紀末より1940年代まで一村より2千余人の移民がカナダ・バンクーバー郊外のスティーブストンに渡り、帰国者が彼の地の生活文化を持ち帰った事から「アメリカ村」として知られる。出典:wikipedia 「アメリカ村 (美浜町)」

海難者を村総出で助けるエピソードは1890年串本沖におけるトルコ(旧オスマン帝国)エルトゥールル号遭難事件を思わせる。ちなみに同事件と、1985年イラン・イラク戦争時のトルコ政府による日本人救出劇が、今年12月に映画化、公開される予定。憎しみの応酬は現在に至るまで掃き捨てる程あるが、日本のごく普通の人々による無償の奉仕が築いたトルコとの友好関係の歴史と精神は、広く知られて欲しいと願う。また、汐見の家での多様な国、民族との出会いが小さな奇跡を紡いで行けるならば、いつか大きな力をもたらすかもしれないと真剣に思っている。

日本・トルコ友好125周年両国合作映画
海難1890

*3 王領:当時カナダは英国領だった

*4 村上(岡野) 喜美子 1904-1997 因島田熊町出身の日系一世。肖像がソルトスプリング島の地域100ドル紙幣に採用されている。北米紙幣でアジア女性の肖像が採用された初のケースとも。ちなみにロバート汐見と同い年である。

出典:せとうちタイムズ「北米紙幣になった日本女性キミコオカノムラカミ」
http://0845.boo.jp/times/archives/category/serial/kimiko

*5 CRD-PARC:The Capital Regional District
– The Salt Spring Parks and Recreation Commission
ビクトリア首都地域-ソルトスプリング公園レクリエーション協会)

*漢字が判らない日系人の方はカタカナ表記とした。
*注記、和訳:西村 暢子

 

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