2016-04-15 |
ロバート汐見,
佐島からの移民
日系移民記事一覧
今回はロバート汐見と同じ佐島出身の田中宇八さんをご紹介させて頂きます。
島通いも1年近く経った頃、道ですれ違ったおばあさんに「暑いですね。」と声を掛けたら、「汐見のもんかいね。汐見のじいさんは私の父親とポートランドに行ったんよ。」と教えて頂きました。初耳です。佐島からは当時英領カナダ・バンクーバー郊外のスティーブストンへの移民が多かったのですが、田中宇八さんとロバートの父佐市の2人はポートランドを選んだそうです。宇八さんは料理人として、佐市は機械の販売員として生業を立てました。
アメリカのルーツ探しサイト、アンセストリー・ドットコム(Ancestry.com)で調べたところ、宇八さんは1881年(明治14年)生まれで佐市と同い年でした。1897年に神戸からモンマスシャー号に乗り6月9日にポートランドに入港しています。佐市の入国記録は1907年以前より遡れませんが、もしかしたらこの時も同行していたのかもしれません。であれば当時2人は16歳でした。
宇八さんはその後何度も日米を行き来しています。小さな島から往復一ヶ月の船旅を繰り返し、最後の旅は77歳の高齢だった事に驚きます。
1917年11月5日 シアトル入港。「ふしみ丸」で神戸より。35歳。
1920年4月2日 シアトル入港。「あふりか丸」で横浜より。38歳。
1935年6月25日 シアトル入港。「ジェファーソン大統領号」で神戸より。55歳。
1957年6月3日 ポートランド入港「ようわ丸」にて。77歳。
宇八さんとロバート一家との記念写真が残されています。ロバートは父の佐市を頼って13歳でポートランドに行きましたが、実の父よりも面倒を見てくれたと宇八さんを慕い、帰国する度に田中家に立ち寄り、亡くなられてからもお墓参りを欠かさなかったという事です。
田中宇八氏とロバート一家
ロバート汐見を調べる内に、少しずつ島の移民の歴史も判って来ました。佐島や近隣の島の移民の歴史は忘れられつつあり、実際に移民を経験した方やそのご家族も高齢化が進んでいます。今後、何らかの形で纏めてホームページなどに残せたらと思います。
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戦後、ポートランドに戻ってからのロバート汐見の人生はアメリカン・ドリームを体現するものであった。
ロバートは名医として知られ、飛行機で診察を受けに来る患者もいたと言う。真偽の程は判らないが、当時日雇いが日給10ドル程度だった頃に1回300ドルの手術を午前と午後に1回ずつ行ったとも言わている。
自宅兼医院を構えたワシントン・パークの東側、サウス・ビスタ・アベニューは、当時メイド以外の有色人種が居住を許されない地域であった。どの様な経緯でロバートがその地域に住居を購入する事が出来たのかは分からないが、ポートランドでも長く続いた人種差別の壁を破った画期的な出来事であったと言う*。
この家は今でもポートランドにあり、不動産売買サイトで外観や室内が見られたが、裏庭には日本より移植したと思われる大きな枝垂れ桜があり、ロバートの望郷の念を感じる。花盛りには観光バスが横付けしたと言う。(写真1)
写真1 裏庭の枝垂れ桜
娘のスーザンとキャロルはリベラルな教育方針で知られるキャトリン・ガベル・スクールに通った。学校年鑑に写るスーザンは日本人の面立ちながら自由闊達なアメリカンガールの表情が興味深い。(写真2)次女のキャロルはスタンフォード大学に進学し、現在はカリフォルニア郊外のロス・アルトスで夫君と暮らしている。
写真2 ケイトリン・ゲイブル・スクール1958年学校年鑑より(前列左から2番目がスーザン)
尚、ロバートはオレゴン大学への母校愛が深く、アメリカン・フットボールの試合には家族揃ってスクールシンボルの白いカーネーションと緑の”O”を誇らしく襟にあしらい、愛車の1949年型パッカードに乗って大学のあるユージンまで繰り出したと言う。(写真3)
写真3 1949年型パッカード(Wikipedia「パッカード」より引用)
後にロバート一家は近隣のサウスウェスト・パークプレイスに自宅を移した。男爵邸を移築したという。次女キャロルより自邸での結婚式の写真をご提供頂いた。(写真4)家族ぐるみの交遊があり、結婚式にも出席した夏目漱石の曾孫ケン・マックレイン氏は「数多くの列席者と自庭の噴水からリビングルームまで続く長いバージンロードは、教会か大きな披露宴会場の様だった。」と語る。
写真4
ロバートは余暇の多くを庭仕事に費やし、よく庭師に間違われたと言う。
*「Robert Shiomi」 Isaac Laquedem ブログ 2004年5月9日付
http://isaac.blogs.com/isaac_laquedem/2004/05/robert_shiomi.html
**住所は1111 SW Vista Avenue、後に転居した自邸は2370 SW Park Placeである。
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1930年にロバート汐見はオレゴン大学医学部を卒業、ニューヨークでインターン生活を送り前途は洋々であった。しかし時代は戦争に向かって進み始め、1931年に満州事変、1937年に日中戦争が始まった。日米関係がいよいよ悪化する1941年5月23日、ロバートは汐見奨学基金を設立し、支部長を務めていた日系人協会(JACL)として地元紙オレゴニアンでリリースを行った。(写真1)
「ヨーロッパ系アメリカ人と日系アメリカ人との相互理解のため、オレゴン州立大及びオレゴン大学の学生各1名に奨学金各100ドルを供与する。」
「奨学生の人種は一切問わない。奨学生に望むことはただ一つ。両者の相互理解に寄与する努力を行うこと。」
6月10日応募締切の奨学金が誰に与えられたのかは判らないが、歴史が示す通りロバートの私財を投じた努力も空しく同年12月8日に太平洋戦争が勃発した。
写真1
Remember Peal Harborのスローガンの下、日本人排斥運動は苛烈を極め、1942年2月のルーズベルト大統領令により日本人の強制収容が始まった。16ヶ所に設置された一時収容所の内、ポートランド日本人収容所の担当医師としてロバート汐見が着任した記事が同年5月23日付けのオレゴニアン紙に掲載されている。5葉の写真には、独身男性用ドミトリー(右下)、食堂と取材をする新聞記者(左下)、所内病院(右上)、ロバート汐見(中央上)、そして戦時国債購入キャンペーンをする当時の人気歌手ケイト・スミスの姿(左上)がある。(写真2)
写真2
日系人収容記録を追うと、ロバートは、1942年9月9日に妻ルビー(幸子)と生後わずか6カ月の娘スーザンと共にアイダホ州のミニドカ日本人収容所に移転、翌1943年1月26日にはカリフォルニア州のマンザナー収容所に移転した。(写真3、4) 更に1943年5月5日にロバート1人がシカゴに*、同年6月6日にルビーとスーザンがコロラド州デンバーに退去している。この辺りの経緯は判らない。
ロバートは生涯ほとんど収容所時代の事を語らなかったと言う。ミニドカ収容所での写真がアーカイブに残されており、ロバートが少年の治療をする姿が残っている*。写真集には明るく笑う日本人の姿が映っているが、トランク一つで収容され、米軍に命を委ねて暮らす日々は想像し難い。
写真3
ミニドカ収容所 日本人収容記録。収容者番号、氏名、生年月日、性別、家族番号、既婚・独身の別、収容日、退去日などが記載されている。
写真4
ミニドカ収容所で少年の治療をするロバート汐見
ロバート汐見がポートランドに戻り、医院を再開したと言う小さな記事がオレゴニアン紙に掲載されたのは、終戦から9ケ月経った1946年5月25日であった。(写真5)
写真5
S.W.Vista Avenueはポートランドの高級住宅街で、当時は有色人種の居住が法律で禁止されていた。
記事は小さいが、ポートランドでの人種差別の壁を破る大きな出来事であった。
その後、ロバートはポートランドのPhysicians and Surgeons Hospitalにも勤務し、60歳を過ぎるまで在籍した。
*シカゴのノーザン大学に専門性の高い胸部外科医として着任した。ポートランド在住で、ロバートと同じミニドカ収容所に収容されたニュートン・ウェスリー(上杉)は、教会と市民による日系学生収容反対運動団体JASRC(the Japanese American Student Relocation Council)の活動により、1942年の内に収容所を退去しシカゴのアーラム大学(Earlham college)の籍を得た。(妻と幼い2人の子供は終戦まで収容された。)ロバートの早期退去は氏の尽力があったのかもしれない。上杉氏は1917年10月1日生まれで、ロバートと同じ誕生日の13歳年下である。コンタクトレンズの普及に貢献し、ポートランドの名士であったと言う。アメリカでの日系人排斥に反対する市民運動も興味深く、機会があれば更に調べたい。
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カナダ国立日系博物館の会報「NIKKEI IMAGE」より転載します。
寄稿:チャック田坂氏
国立日系博物館・文化センター発行「NIKKEI IMAGE」2015年夏号 Vol.20 No.2 *1
和歌山県の南紀州はウバメガシを原料にした備長炭で知られる。備長炭は堅く長時間燃え続けるため高品質とされている。多数の紀州出身者がカナダに移民し、この炭焼の技術が役に立った。漁の季節が終わると彼らはガルフ諸島に渡り、冬の生業として炭を焼いた。行き先はメイン島やガリアーノ島、サターナ島であった。
―――
「古きものは今や新しい」。何千年も前から和歌山県の職人は、サムライの刀に鍛えられる最高の鋼を作る炭を焼いて来た。和歌山の熟練した芸術家は将軍が望む人材であった。彼らは鉄を溶かして武器を作るための最高の炭を焼く技を持ち、且つ陶器を量産する技術も有していた。
電気とガスが普及し、炭焼き技術は過去のものになった。しかし、今この炭焼技術が再び脚光を浴び、鰻や焼き鳥を焼く高級料理人に広く使われるようになっている。ほぼ無煙で高熱を発するためである。
和歌山県の南紀州はウバメガシを原料にした備長炭で知られる。備長炭は堅く、長時間燃え続けるため高品質とされている。多数の紀州出身者がカナダに移民したが、この炭焼の技術が役に立った。漁の季節が終わると彼らはガルフ諸島に渡り、冬の生業として炭を焼いた。移動先はメイン島やガリアーノ島、サターナ島であった。ガルフ諸島には日系人の移植地が点在し、市場園芸が盛んであった。このため、漁師たちはこの地域の入植者から製炭に適した樹木を求めたのである。炭はステベストン(スティーブストン)の魚缶詰工場で、缶をハンダ付けするために使われた。スナップ式の缶が発明されると、その普及と共に炭の需要は失われた。
古来からの炭焼きを学んだ時、私の祖父、田坂伊三郎の事を思わずに居られなかった。私の祖父も漁の無い季節に炭を焼いていたのだ。家族を支える為のなりわいに尊敬の念を禁じえない。
祖父は和歌山出身の友人から炭焼を習った。日本に居た時、祖父は彼の父親が所有する貨物船の船長であった。彼の船が和歌山県の三尾村*2沖で難破した時に、村人は総出で彼を助け、薪を焚き、食料や乾いた衣服を提供した。彼は村人の厚情に生涯恩義を忘れなかったが、この災害をきっかけに伊三郎が三尾村で得た多くの友人の何人かと、後日ブリティッシュコロンビアのステベストンで再会を果たしたのである。伊三郎の本業は漁師だったが、漁の無い季節にはソルトスプリング島に戻り炭を焼いた。
1900年代初頭、アジア人は王領*3の土地を買う事が出来なかった。伊三郎は地元の鍛冶屋、マカフィー氏と友人になり取引をした。つまり、田坂氏は炭の原料になるハンノキを伐るためソルトスプリング島の土地を300エーカー購入する。引き換えにマカフィー氏は炭を仕入れる権利を得る。こうして現在のモウアット公園内に2つの炭窯が築かれた。
ビクトリア州の炭窯再生の達人、スティーブ・ネムティン氏の説明によると、伊三郎の最初の仕事は長さ6m、幅3m、深さ2mの穴を掘る事だった。次はその穴の内側に石壁を築く。ガルフ諸島の他の窯と異なり、伊三郎は窯に改良を加えた。和歌山の窯は概ね子宮か涙粒の形をしているが、祖父は窯を拡張して茸のような形に作り上げた。伊三郎は窯に3ヶ所の排気口を開け、窯に入る酸素の量を調節し易くした。次に祖父は地面にヒマラヤ杉の板を並べた。一列は南北に、もう一列は東西に。そのあと、彼はハンノキを同じ寸法に切り揃え、窯の中に立てて並べた。次に窯を覆う。垂直に立てられた原木は小枝や枝で覆われ、窯は空気を遮断するために砂で固められた。伊三郎は次に窯の入り口から着火し、火入れを行った。これは完了するまでに大変な時間を使う仕事で4-5日間を要し、原木が着火しない様に終日気を付けなければならない。
伯母のマスエと伯父の大正の子供の頃の手伝いは、窯から出る煙を見張る事だった。全ての作業が終わった後、祖父は窯を開けて窯の入り口から熊手で炭を掻き出した。その時の炭の跡が発見されている。マスエは(炭を詰める)米袋が一杯になると袋の端を縫い合わせた。伊三郎は熟練の船長だったので、自前の漁船で炭200ポンド(約90kg)をウォルター湾からビクトリア州の石鹸工場まで運んだ。一袋毎に30セントが支払われ、この副業によって彼は冬の間も大家族を養う事が出来たのである。
田坂伊三郎とヨリエは1905年にソルトスプリングに移転した。ステベストンで長男の一が腸チフスで亡くなったためである。伊三郎は友人からソルトスプリングは水が良いと聞いたのだろう。14人の子供がソルトスプリング島のガンジスで生まれた。耕二、蟻三、佐中、従道、マスエ、大正、二三、フサ、亥子、千鶴子、京、武夫、花、そして八郎である。長男長女の増子と一、1929年に生まれた最年少の末子はステベストンで生まれた。田坂家は一旦ステベストンに戻り、1935年に下から4人の子供を伴って日本に帰った。
約100年を経て、祖父の2つの炭窯が発見された。村上(岡野)喜美子さん*4と娘のローズ、そしてステファン・ネムティン氏が窯の場所を覚えていたのである。
2014年にローズが窯の再生プロジェクトを開始し、日本庭園協会理事のカネサカ ルミ氏は寄付寄贈の募集に奔走した。ビクトリア首都地域ソルトスプリング公園・レクリエーション委員会(CRD-PARC*5)はガリアーノ島のステファン・ネムティン氏の支援依頼に応え、大いなる情熱をもって本件を後押しした。ステファンと協会のスタッフにより炭の欠片やクレオソート、窯や圧縮された砂の結晶プレートが発見された時は大変な興奮に包まれた。皆、砂場の子供のように働いた。大型の釜が先に再生され、続いて小型の釜に取り掛かる予定である。
ビクトリア首都地域ソルトスプリング公園・レクリエーション委員会、地域ボランティアの皆様により本件が実ることが出来た事を、田坂家一同に代わり篤く御礼申し上げる。窯の完成は7月頃を予定している。
以 上
*1 NIKKEI IMAGE:
原文 Isaburo Tasaka’s 100-year old Charcoal Kiln found on Salt Spring Island
http://centre.nikkeiplace.org/wp-content/uploads/2015/06/NI2015_Summer-FINAL.pdf
8-9ページ参照
(参考記事)
ソルトスプリング日本庭園リリース 2015/11/29にオープニングイベント開催
http://www.saltspringjapanesegarden.com/about-the-restoration
現地説明会の動画
https://www.youtube.com/watch?v=HQmHVu2uhKo
*2 三尾村:
和歌山県日高郡美浜町三尾。19世紀末より1940年代まで一村より2千余人の移民がカナダ・バンクーバー郊外のスティーブストンに渡り、帰国者が彼の地の生活文化を持ち帰った事から「アメリカ村」として知られる。出典:wikipedia 「アメリカ村 (美浜町)」
海難者を村総出で助けるエピソードは1890年串本沖におけるトルコ(旧オスマン帝国)エルトゥールル号遭難事件を思わせる。ちなみに同事件と、1985年イラン・イラク戦争時のトルコ政府による日本人救出劇が、今年12月に映画化、公開される予定。憎しみの応酬は現在に至るまで掃き捨てる程あるが、日本のごく普通の人々による無償の奉仕が築いたトルコとの友好関係の歴史と精神は、広く知られて欲しいと願う。また、汐見の家での多様な国、民族との出会いが小さな奇跡を紡いで行けるならば、いつか大きな力をもたらすかもしれないと真剣に思っている。
日本・トルコ友好125周年両国合作映画
『海難1890』
*3 王領:当時カナダは英国領だった
*4 村上(岡野) 喜美子 1904-1997 因島田熊町出身の日系一世。肖像がソルトスプリング島の地域100ドル紙幣に採用されている。北米紙幣でアジア女性の肖像が採用された初のケースとも。ちなみにロバート汐見と同い年である。
出典:せとうちタイムズ「北米紙幣になった日本女性キミコオカノムラカミ」
http://0845.boo.jp/times/archives/category/serial/kimiko
*5 CRD-PARC:The Capital Regional District
– The Salt Spring Parks and Recreation Commission
ビクトリア首都地域-ソルトスプリング公園レクリエーション協会)
*漢字が判らない日系人の方はカタカナ表記とした。
*注記、和訳:西村 暢子
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1920年にフェイリング・エレメンタリースクールを卒業し、ロバート汐見はベンソン・ハイスクール(写真1)に進学した。地元密着紙OREGONIAN*に何回か名前が掲載されている。
写真1
<ラジオクラブ> 1922年3月19日付
12人の新メンバーが前回3月7日のミーティングで選ばれた。フロイド・ロビンソン、グレン・フーバー、(中略)ロバート汐見とジョセフ・ミラー。ミーティングではクラブの年長のメンバーによる無線電信の連続講義と質問コーナーが始まっている。リチャード・セトラストロムとウィラード・バージーは受信機を作成し現在設定中だ。この受信機は完成後クラブ室に設置される。
Shows afford Amusements for pupils of citi high schools (The Sunday Oregonian 19,Mar. 1922)
右から4列目、下から第2パラグラフが当該記事。
<カメラクラブ> 1922年11月19日付
ベンソン・テック・カメラ・クラブは毎週金曜日の放課後に定例会を開いている。11月10日にはクラブに相応しいピンバッジ式エンブレムの選定を行った。採用されたデザインはコダックの折り畳みカメラのミニチュアの意匠で、クラブの頭文字T.C.C.が刻まれている。ホールデン・リロイは様々な写真誌を調査し次回のミーティングで報告する事になった。新しい暗室の予定表も完成し、運用され始めた。メンバーはこの週次予定表に従って自分やクラブの写真を現像し、技術を磨く。今回の定例会の多くの時間は、準備中の写真コンテストの打ち合わせに割かれた。ロバート汐見は掃除係を任されて暗室を片付けに行った。
Multitude of affairs keep pupils of high schools busy (The Sunday Oregonian 19, Nov. 1922)
右から2列目最下段パラグラフが当該記事。
ラジオクラブとカメラクラブ。ロバートは中々新しい物好きだったようである。
ラジオクラブの集合写真でもアジア人はただ一人。それにも臆せず古き良き時代のアメリカで高校生活を楽しんでいたロバートの姿が浮かぶ。(写真2)
写真2(前から2列目右から2人目がロバートと思われる)
高校卒業後、ロバートはオレゴン医学部大学に進学した。父の佐市はこの頃日本に帰国したらしく、ロバートの次女キャロルによると、ロバートは住み込みの下男(houseboy)をして学費を稼いだと言う。1930年のオレゴン大学年鑑の復刻版を取り寄せたところ、アールデコの装丁の立派なハードカバーで、多彩なクラブ活動や様々なアクティビティで青春を謳歌する大学生達が溢れているが、ロバートにはその様な余裕はなかったことだろう。博士帽を被ったロバートの卒業写真のキャプションには、卒業後の進路はニューヨークでのインターンとある。(写真3)
写真3
オレゴン大学紀要(The University of OREGON Bulettin)によると、ロバートはCollege of Literature, Science and the ArtsとSchool of Medicine, Doctor of MedicineのBAを取得している。青春代に培った文学・科学・芸術の素養が、後に美術館やオーケストラ、オペラへの支援活動に繋がったのだろうか。
*The Sunday Oregonian原文
<Radio club 19220319>
Twelve new members were voted into the Radio club at the last meeting on March 7. They are: Floyd Robinson, Grenn Hoover, Darwin Marvin, Leslie Brennan, W. C. Stuart, Percy Yost, Ralph Peterson, Clyde Blomgren, Richard Oswad, Ed Bell, Robert Shiomi and Joseph Miller.
Their older members of the club have started a series of lectures on the theory of wireless telegraphy at the meetings. A question box has also been started. Rechard Settlerstrom and Willard Barzee are now constructing and setting up a receiving set. This set will be installed in the club room when it is completed. The club constitution is being revised by Murice Saelens, William Burke and John Smith.
<The Benson Tech Camera club 19221119>
The Benson Tech Camera club held their regular meeting after school on Friday, November 10 at which time they proceeded to select a suitable emblem in the way of a pin which would represent the club in the most satisfactory manner.
It was decided that the best design was that of an open miniature folding camera of kodak, upon which was emblazoned the letters T.C.C. Holden LeRoy was appointed to investigate merits of various photography magazines and make a report on the same at the next meeting.
The new dark room schedule has just been completed and is now being enforced. By this schedule each member is allotted a certain amount of time to use the dark room each week for he purpose of developing or printing his own or the club’s pictures.
A good portion of the meeting period was devoted to the talking over of the photography contest now in progress among the club members.
Robert Shiomi was appointed clean and straighten up the dark room
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アメリカのルーツ探しサイト ancestry.com に、ロバートの写真や新聞記事が数点アップされていたのを見つけました。不思議に思い投稿者のジョン・マニオンさんに問い合わせたところ、早速返事を頂いたので詳しい話を乞うと翌日には丁寧なメールを送ってくれました。
「こんにちは!長いメールですよ!楽しんで下さい!
このメールに僕が調べた全てを書くつもりです。添付ファイルは大きすぎるので分けて送ります。
母について。長い物語ではありません。母は短く簡単に話す人だったので。
それでも彼女は2014年に亡くなる直前まで何度も何度もこの話を語りました。掛かり付けの医者にもDr.ロバートの事を話しました。僕の他の家族もこの話を聞いています。僕が知っている事を話しましょう・・
<母の物語>
彼女は1948年に大学を卒業しました。24才でした。卒業後、まだ働き始める前に彼女は病気になりました。重い病気です。ウィルス性の肺炎でした。彼女の担当医は抗生剤とサルファ剤を処方しましたが彼女はベッドから離れられず、担当医は匙を投げました。
彼女にジェーンという社交的な友人がおり、彼女を介して往診をすることで知られていた日本人医師の元に行く事になりました。母曰く、第二次大戦後のポートランドでは日本人の評判は良くなかったので、普通ならば日本人に助けを求めるなどありえなかったと言うことです。
ドクター汐見は彼女の家を往診しました。何度か診察した後、彼女はサルファ剤アレルギーのために敗血性ショックを起こしているので投薬を止めるべきと診断しました。彼女は高熱を出していたため、彼と看護婦が2週間の間、殆ど毎日往診を続けました。そして3週間の後、彼女は回復したのです。ドクター汐見は、今回の病気のために心肥大の症状が残った事を伝えました。皆、ドクターが彼女の生命を救ったと語り合いました。
彼女は1951年に結婚し、5人の子供に恵まれました。私は彼女の息子です。10年ほど前に初めて彼女からこの話を聞き、私は彼女にもっと話を聞かせて欲しいと頼み、彼がアイダホ(注:ミニドカ強制収容所)にいる時の写真を見つける事が出来ました。彼女にその写真を見せたところ、彼女は「そう。この人よ。」と言いました。これで彼女の話は終わりです。」
アメリカの医者は往診をしませんが、ロバートは日本式の往診をしていたので珍しかったようです。戦後の一層辛い時期でも、誠実な仕事を通して信頼を築いて行ったロバートや日系人の姿が小さなエピソードから浮かび上がります。
ジョンさんからは地元オレゴニアン紙に載ったロバートの記事を沢山送って頂きました。ロバートはなかなか愛嬌のある人物だったらしく、よく新聞に載っていたそうです。
また、メールを交わす内にジョンさんのお祖母様がロバートと同じ小学校で1学年下だった事が判り、世間は狭いねと驚きました。
出典:Online Archives of California
Hospital Series. Scene in out patients clinic, where Jimmie has an injured thumb repaired. (L to R) Dr. Robert H. Shiomi, Niyoko Shitamae, nurse, Jimmie Shimizu, patient. — Photographer: Stewart, Francis — Hunt, Idaho. 12/10/42
写真右手がロバート。看護婦のシタマエ ニヨコ(ミヨコ?)さん、患者のジミー清水くんもご健在であれば90、100歳でしょう。
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