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日系移民 (NIKKEI History)

130年の時を越えて〜スティーブ・オダ サロードコンサート in 佐島

明治19年、佐島の青年小田茂三郎氏が島を離れ単身カナダに渡る。130年あまりの時を経て今、日系カナダ人三世サロード奏者スティーブ・オダ氏が祖父の島で開催するインド音楽コンサート。海を越え、時を越えて奏でられる弦の響き。

日時: 2019年4月20日(土)14時〜16時

場所: 西方寺 (汐見の家から徒歩0分)

演奏: スティーブ・オダ (サロード)

共演: 寺原 太郎 (バーンスリー)

          グレン・ニービス (タブラ)

通常料金: 3000円(高校生以下半額)

宿泊セット: 10000円(ライブ、朝夕シェアごはん、宿泊)

問合せ、申込: DM、メール(shiomihouse@gmail.com)、電話: 0897-72-9800

共演者の寺原太郎さんと百合子さんは、5年前にスティーブさんのルーツを探りあて、里帰りと西方寺での奉納演奏を実現しました。12年前のスティーブさんとの初共演の感動、ルーツ探しの経緯を綴ったブログを是非ご覧下さい。

おじいさんの故郷を訪ねて Sashima2014

https://sashima2014.jimdo.com/

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古民家ゲストハウス汐見の家は4月で3周年を迎えます。拙い私たちを応援し、支えて下さった皆様に心より御礼申し上げます。

汐見の家の再生と運営は、人と歴史と繋がる大きな旅でした。その象徴のようなスティーブ小田氏を開業3周年にお迎え出来る喜びは言葉に尽くせません。

皆さまお誘い合わせの上、ぜひご来場下さいませ。

古民家ゲストハウス汐見の家 一同

 

12月8日 汐見日系移民祭

周囲わずか10kmの佐島から、明治・大正期に少なからぬ人々が北米に移民しました。行き先は主にカナダのバンクーバーと米ポートランドです。

13歳のロバート汐見がポートランドに着いたのは1918年。渡航百年を記念して、佐島北米移民の軌跡を振り返ります。

この度、戦前カナダの伝説的な日系人野球チームを描いた「バンクーバー朝日軍」の著者テッド古本氏をお迎えし、ご講演頂きます。

テッド古本さんのお父様はバンクーバー朝日軍のエースピッチャー、テディ古本さん。佐島出身の二世、ブル小田さん(本名ヒデオ)はテディさんより8才年下で、キャッチャーとして活躍しました。お2人とも朝日軍の一員としてカナダ野球殿堂入りしています。

汐見の子孫、西村からは佐島の北米移民とロバート汐見の生涯、2月にゆかりの地を巡った話をさせて頂きます。

奇しくも日本の移民政策の転換点となる今年の、真珠湾攻撃の日となりました。少しでも温故知新の糧になれば幸いです。

お誘い合わせの上、ぜひお運び下さい。

 

日時: 2018年12月8日(土)13:30-17:00

場所: 古民家ゲストハウス 汐見の家

愛媛県越智郡上島町弓削佐島299

料金: 1500円(お茶・お菓子付き)

定員: 30名

*佐島在住・出身で北米日系移民の子孫の方はご招待

*宿泊セット定員5名。テッド古本氏、西村とシェアごはん付き1万円

次第: 

13:30 佐島の北米移民とロバート汐見(汐見の家 西村 暢子)

14:30 バンクーバー朝日軍(テッド古本氏)

16:00 くるま座懇親会

17:00 お開き

問合せ: shiomihouse@gmail.com

tel:090-8455-4480 西村(平日9-12、13-18時を除く)

後列左端がテッド古本氏の父上テディ古本氏

前列左から2人目が佐島出身二世のブル小田氏

1942年、ポートランド一時収容所開設を伝える地元紙オレゴニアン記事。上段中央は医師として着任するロバート汐見。

日系移民記事一覧

 

おわりに

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ロバート汐見は2004年5月2日、ポートランドで99歳の生涯を終えました。
地元紙オレゴニアンに小さな死亡広告が載り、とあるブログ*に掲載された追悼文には「ロバート夫妻はポートランドで長く続いた人種差別の壁を打ち破った。」と書かれています。

*「Robert Shiomi」 Isaac Laquedem ブログ 2004年5月9日付
http://isaac.blogs.com/isaac_laquedem/2004/05/robert_shiomi.html

汐見の再生が足踏みしていた時期に、ふと佐島で一度きり会った大叔父ロバートのことを調べ直そうと思いました。母から断片的な話を聞かされていただけで、履歴も人柄もほとんど知らない遠縁に過ぎなかったのです。
あまり期待しないでネットサーチを始めましたが、1907年付けの曽祖父佐市のアメリカへの入国票を見つけ、そこからすっかりハマりました。曽祖父が渡米していたこと自体を知りませんでした。

また、佐島で聞き取りからカナダ東岸への移民が多かったことが判り、この夏には5代前の祖先で繋がるカナダ在住の同い年の親戚と汐見で出会う僥倖にも恵まれました。先祖との縦の繋がりと今現在の横の繋がりに感嘆するばかりです。

ロバートは地元の名士だったようで多数の資料が残されていましたが、一緒に見つかった先祖達の人生の断片に出会うのもまた大きな収穫でした。

19歳で三原からお嫁に来て、23歳の時に夫の佐市が渡米した後たった1人で2人の息子を育て上げた曾祖母のマン。息子は2人とも10代で島を出て戻らなかったので、長い間1人で汐見を守りました。おおらかな人柄でおマンねえと慕われたそうです。

曽祖父の佐市は渡米してもまともに仕送りせず、帰国してからも働かず本ばかり読んでいたそうです。汐見の納屋から洋書が沢山出て来ました。一方で庭に太神楽を呼んだり8mmの映写会を開いたり、夏は港のあたりで夕涼みをしながら子供達に色々面白い話を聞かせていたと、島の皆さんに教えて頂きました。

夭折した子供もありました。

様々なエピソードに触れてから家計図を見直すと、一人一人の名前が大河ドラマのタイトルに見えます。
激動の時代を生き抜いた全てのご先祖に敬意を表さずにはいられません。

面白いものを見つけた子供のように「見て見て!」と綴って来た「ロバート汐見の足跡」ですが、これで区切りを付けたいと思います。新しく判ったことは追々足して行きます。

ご協力頂いた皆さま、拙い文章にお付き合い下さった皆さまに心より感謝申し上げます。

2017年12月30日
西村 暢子

日系移民記事一覧

戦後の日系カナダ人-佐島根岸邸3通の文書-

日系移民記事一覧

佐島・根岸邸の屋根裏に大きなトランクがありました。

明治末年にバンクーバー郊外に移民していた家です。トロンコと呼んでいたそうです。

中にはセーター、ワンピース、着物や端切れが少し。そしてくしゃくしゃに丸められた紙が3枚ありました。

お借りして家で読み解いたところ、このような文書でした。

 

・戦後、日系カナダ人の強制送還措置に関するカナダ政府閣議決定抄訳(1945年12月15日)

・日系カナダ人の権利擁護運動資金募集の件(1945年12月24日)

・戦時に強制売却させられた資産等に対し賠償請求を行うための目録フォーム

 

カナダの日系人も第二次大戦前後に塗炭の苦しみを味わいました。根岸家の方は強制送還により帰国されたのでしょうか。

くしゃくしゃに丸められ、それでも捨てられなかった3枚の紙に歴史を感じます。

 

運動資金募集の紙を読むと、カナダの複数の白人団体が日系人支援に取り組んでいることが判ります。

最近になり、ロバート汐見もシカゴを中心とした日系人排斥反対団体の尽力で早い段階で強制収容所を退去したと思われる資料が見つかりました。

アメリカやカナダ全土が日系人排斥に流れたのではなく、戦時にあっても多様な意見を許容していた両国の民主主義の懐の深さに感銘を受けます。

また、少数派であったろう白人の日系人支援団体のご尽力には感謝の念を禁じ得ません。

日系カナダ人の歴史はこちらから。

重厚なトロンコ。一般にはスチーマートランクと言われ、1870年代から1920年代に汽船や蒸気機関車での長旅に使われたそうです。

 

カナダ・ウォータールー市のドーリングトランク社製でした。

 

当時、唯一の外為銀行だった横浜正金銀行からの通知はがき。

 

日系カナダ人の強制送還措置に関するカナダ政府閣議決定抄訳(原本)

 

日系カナダ人の強制送還措置に関するカナダ政府閣議決定抄訳(書き起こし)

 

在加同胞権利擁護資金募集に就いて(原本)

在加同胞権利擁護資金募集に就いて(書き起こし)

賠償請求目録フォーム(原本)

賠償請求目録フォーム(書き起こし)

 

記録のため、テキスト全文を記載します。(旧字体です。)

 

<日系カナダ人の強制送還措置に関するカナダ政府閣議決定抄訳>

▲一九四五、十二、十五日附議会の承認を求むる為キング首相より提出された閣会(プロビンス紙邦訳)

一、P.C.七三五五、この閣会は働労大臣が「帰国申請をなしたる日本臣民」「帰国の申請をなし一九四五、九、一日夜半までその取消を申込まなかった帰化日本人」「日本行きを申込み送還命令の下る以前にその取消を要求しないカナダ出生日本人」等を日本に送還する政府の方針を遂行する規定である

二、P.C.七三五六、前項七三五五号に依り送還される帰化人はカナダの地を離れると同時にカナダ市民或は英国臣民の権利を失ふことの規定にある。

三、P.C.七三五七、この條項は「カナダに於ける日本臣民及び帰化日本人の挙動忠誠」並び「戦時中カナダ政府にどれだけ協力したか否やを進言する為の三名からなる調査委員会を設定する規定である。

▲、キング首相は之を説明して

一、凡ての送還されるものはその所有財産(動産)及び現金を持って行く事が出来る。尚不動産其他自分の持って行く事を望まない物品は賣却するなら他の方法で處分する事が出来る。

二、日本に於い再定住する迄の費用として最小限度一人当り大人金二百弗小人金五拾弗を所持して帰す事を保証する。当人がこの額を所有しない場合政府がその不足額を補助する。

三、此の補助金はカストヂアンに保管してある敵国財産に依って補償するものである

▲忠誠調査委員會設定に就いて

一、政府は日本人の或る者がこの国に止まる事を欲しないと言ふ事を確かめたがる人は調査すべきである

二、この国に止まりたいと言ふ日本臣民及び帰化人の中でもその忠誠に疑いのある者は相当数ある

是等の者は充分且公平な調査が行はれるのである。

三、交戦中インターンされた者の中でもカナダ国家の利益の為送還したが良きや否に疑問のある者もある。

四、調査委員は日本臣民及び帰化人のみを調査しカナダ出生者は調査しない。

五、調査委員は九月一日夜半迄に取消しなかった帰化日本人を調査する権能がある。

調査委員は送還を進言する権能がある。

▲表面に於て「一九四五、九、一日夜半までに取消しなかった帰化日本人を送還する為の規定」と言ひ乍ら調査委員設定の㐧五項「九月一日夜半までに取消しなかった帰化日本人の調査」云々と説明してゐる處にP.C.七三五五、の裏がある事を見出さねばならぬ。

▲而もこの閣令未だ議会をパスしたものや否やは疑問であり議会はこの閣令を繞って相当の激論が戦はされた模様でありであり修正される可能性が充分にある訳である。更に過般議会を通過せる緊急権力法案中㐧三章G㐧十五(市民の籍を取上げ或は追放する権能を政府に附與する條項)の削除に依って日本人ナショナルに対してさへも纏めて追放する事は許されないものゝ如くである。進んで帰国するものでない限り送還する為には各個人を裁判して此の国に在留するに適しないと宣言しなければならないのである。(十二月十五日ニューカナデアン紙参照)

▲P.C.七三五五に依ればこの国生れの二世帰国命令の下る以前に取消さへすれば完全に止まることが出来るのであり、この運動は今後主力を「日本人ナショナルと帰化人」に注ぐことが出来る様になつたのは更に今後の運動を容易ならしめるものである。

▲キング首相が議会に提出した閣令を見て一世帰化人の取消運動が絶望の如く考ふるのは早計であつてこれから愈々本舞台に入る訳である。殊に二世帰国者並びに親同伴の十六才以下の二世の市民籍に関しては何ら言明されていない点にも注意せねばならぬ

 

<在加同胞権利擁護資金募集に就いて>

▲全加奈陀に亘って在加同胞権利擁護の運動資金募集の目的
一、強制送還の防止

二、父母に伴はれて帰国する十六才未満の二世市民権の保留

三、強制移動に依って生じたる損害賠償

四、制束される現行諸規制の撤廃と完全なる市民権の要求

▲募集せむとする資金の性質・・・・・・・・・・・・右に依って既にトロント市の日本人委員會が目標額金一萬弗と定め其の募集に着手された事は十二月十五日ニューカナデアン紙報導の通りで資金の性質は全加共通のもので續々と白人間に於いて集めて呉れてゐるにも拘らず左等の白人に対して全りにもB.C.の日本人は無関心で居ると言ふ印象を與へたくない為一丸となって資金の募集に協力するのである

▲吾々同胞の窮境に同情して各方面に活躍して呉れてる左の白人團体がある
晩市・・・・・・・・・・◎コンソーテーチブ、コンシル   ◎ シビル リパチー、リーグ
トロント市    ◎コーポレーチブ コミチーオン、ジヤパテス、キヤナデアンス。
仝       ◎シビル、リバチー、リーグ
ウヰニペック市◎コーポレーチブ、コミチー、オン、ジヤパニーズ、キヤナデアンス、
仝      ◎シビル、リハチー、リーグ
全加CC、F党特にアングス マキニス代議士(晩市選出)

▲各地胞人間に於ける活動團体
◎トロント市の交友會並びに有志二世團体等は当然此の国に留まる事の出来る人達であるがこの運動に盡力されてオンタリオ州で三千弗を集める予定の由である。
◎ウヰニペックのデモクラシー擁護委員會は吾々西部カナダ各團体の本部として我々と緊密なる聯絡を執ってゐる。
◎タンメでは此の運動の急先鋒で常に当地の各團体とも歩調を合し既に金二千七百余弗の資金を募集してゐる。
◎スローカン地方・・・・・・ポプオフは全村を挙げて一斉に募集。取消をしてゐない五名が資金調達の役員に加って既に完了の域に達してゐる。
◎スロカン、シテーに於いても十二月二十日より着手してゐる。
◎ベイファアムも既に着手している筈で去る中央委員会に於てパプオフ同様に「全村より募集」と決定してゐた。
◎ロースベリー・・・何れも提携して行くと言ふ通信が来てゐる。
◎ニユデンバー・・・有志に於て援助される聲あり。

▲以上の如き目的とそれに対する各地有力白人團体の涙ぐましき援助と各地同胞の努力を考ふる時吾々は敢然起って協力、当然負ふべき義務の一端を果たすべき秋である
殊に目前に迫った吾々の問題!!夫れは帰国命令である。その準備として人身保護律(ヘビヤス、コーパス)に訴へて強制送還を防止する上に必須の資金ともなる訳である。

千九百四十五年十二月二十四日
レモンクリーク帰国申請取消者團体
各位

 

<損害賠償請求目録フォーム>

移動前の住所
日本国籍者
帰 化 人 氏名
カナダ 生              街   番

一、帰国申請署名者      名、帰国申請署名取消者    名、

一、カストデアンに届け置きし(土地)の移動当時の最低見積價額
強制賣却に依り受けたる價額
右の差額に依る賠償金額

一、カストデアンに届け置きし(家屋)の移動当時の最低見積價額
強制賣却に依り受けたる價額
右の差額に依る賠償金額

一、カストデアンに届け置きし(家具及器具)の移動当時の最低見積價額
強制賣却に依り受けたる價額
右の差額に依る賠償金額

一、機械類の移動当時に於ける最低見積價額
強制賣却に依り受けたる價額
右の差額に依る賠償金額

一、カストデアンに届け置きし(漁船)の移動当時に於ける最低見積金額
強制賣却に依り受けたる價額
右の差額に依る賠償金額

一、カストデアンに届け置きし(漁具)の移動当時に於ける最低見積價額
強制賣却に依り受けたる價額
右の差額に依る賠償金額

一、カストデアンに届け置きし(自動車)の移動当時の最低見積價額
強制賣却に依り受けたる價額
右の差額に依る賠償金額

一、農工商林漁業の一ヶ年に於ける豫算收入と現在の收入との差額

一、労働に依る一ヶ年の豫算收入と現在の收入との差額

一、其の他の損害賠償

日系移民記事一覧

アメリカ日系一世ロバート汐見の足跡(7)社会貢献-留学生支援-

日系移民記事一覧

ロバート汐見は継続的に日本人留学生を支援し、その数は30人を超えたと言う。
その留学生達も多くは鬼籍に入り詳細は判らないが、その1人は夏目漱石の孫、松岡陽子氏であった。

陽子氏は漱石の長女筆子と漱石門下の松岡譲との次女。戦後まもなくアメリカの奨学金を得て1年間オレゴン大学に留学した際にロバート汐見との知遇を得た。奨学期間が満了し帰国する直前にロバートから支援の申し出を得て留学を続け、後にオレゴン大名誉教授となった。陽子氏の著書「漱石の孫のアメリカ」*1に「こちらで成功しておられる親切な一世の医学博士」の助けで留学を続けられることになったと語られている。

ロバートは陽子氏の結婚式にも父親の代役で出席*2、生涯にわたり家族ぐるみの交流を続けた(写真1、2)。ちなみに陽子氏の息子、ケン・マックレイン氏には開業前より汐見の家を応援して頂いたが、2017年7月には家族3人で汐見の家に2泊して頂き、先代からの旧交を温める僥倖に恵まれた(写真3)。ロバートの渡航百年にあたる2018年には筆者がオレゴンを訪問する計画を立てている。

写真1
YokoMcClainWedding
結婚式。左からマックレイン氏両親、新郎・ロバートマックレイン、新婦・松岡陽子、汐見夫妻。1956年12月22日(ケン・マックレイン氏提供)

写真2
YokoMcClain_RobertShiomi
松岡陽子氏とロバート汐見。オレゴン大学付属ジョーダン・シュニッツァー美術館前で。1996年頃(ケン・マックレイン氏提供)

尚、ロバートはかの緒方貞子氏*3を「世話した」と懐かしく語っていた。外交官であった緒方氏の父、中村豊一氏は1932年(昭和7)10月より3年間ポートランドの領事館に駐在し*4、その間、ロバートと公私にわたる交流があったと言う*5。

当時5歳の貞子嬢は今もリベラルな教育で知られる幼稚園から高校までの一貫校、私立ケイトリン・ヒルサイド・スクール(現ケイトリン・ゲーベル・スクール)に入学したが、ロバートはその後2人の娘を同じ学校に通わせ、東京に住んでいた姪には緒方氏と同じ聖心女子大を勧める惚れ込み振りであった。さぞ聡明で魅力的な少女であった事だろう。

OREGON Encyclopediaには同校の著名な卒業生として緒方氏の名前が記載されているが、氏が実際に在籍したのは8才までのわずか3年間である。推測に過ぎないが、戦後、貞子嬢が同校に復学出来るようロバートが学籍を維持していたのかもしれない。同校に確認したところ、高校の卒業生として緒方氏(中村貞子)が記録されている事は間違い無いということである。

1976年11月25日付オレゴニアン紙(写真3)によると、ロバート汐見は長年にわたる留学生や文化団体への支援など日米文化交流への貢献をもって叙勲を受けている。日本の身内には殆ど連絡をせず、姪である筆者の母もこの記事を見るまで知らなかった。あっさりしたものである。

写真3
1976 11 28 Dr Shiomi award from Emperor2

*1 「漱石の孫のアメリカ」 P17 松岡陽子マックレイン著 新潮社 1984年
*2 Celebration of Life: YokoMcClain.org  ケン・マックレイン氏が管理する松岡陽子氏のメモリアルサイト。
*3 元国連高等弁務官、JICA特別顧問。褒め称え尽くせない偉人。知らない方はぜひググって下さい。
*4 「戦争の終わらないこの世界で」 緒方貞子著 NHK出版 2014年
*5 筆者の母談。ポートランド日本領事に提出したロバートと妻ルビー(日本名幸子)の婚姻届の受領者が中村豊一氏である。日系人の少ないポートランドで、幼い子供を持つ外交官一家が、世代が近く往診もする日本人医師と親しい関係であっても不思議ではなかろう。ちなみに大胆にもJICA経由で照会したところ、「お名前は覚えているが何分幼い頃のことなので」と秘書の方よりご返信を頂いた。お手数をお掛けしたことをこの場を借りてお詫び申し上げます。

日系移民記事一覧

アメリカ日系一世ロバート汐見の足跡(6)社会貢献-文化財寄贈-

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アメリカには寄付は富裕層の義務とする文化があり、節税にも繋がるが、ロバート汐見の社会貢献はその範疇を超えている印象がある。

ロバートの姪である筆者の母より、「継続的な寄付をしていると「今年は無し」と言えないので借金しても寄付をする年がある。」とロバートがぼやいていた話を聞いた事があったが、その内容は全く判らなかった。どうやら大きく3種類に分かれ、一つは留学生支援、二つ目はオーケストラやオペラ団への支援、三つ目が文化財の寄贈と言うことが判って来たが、この度オレゴン大学併設Jordan Schnitzer Museum of Art (JSMA)よりロバート汐見の寄贈リストをご提供頂いた。資料としてリストを記載させて頂く。所蔵品名は英文からの翻訳のため必ずしも妥当ではない可能性がある点、ご容赦願いたい。

1. ガンダーラ仏 仏頭 アフガニスタン 2世紀半
Head of Buddha1

2. 聖観音菩薩立像 日本 平安時代
JPN11-6_th

3. 阿弥陀如来図 日本 南北朝
JPN32-2_th

4. 十三仏図 日本 南北朝
JPN32-3_th

5. 菅原道真坐像 土佐経隆 日本 南北朝
JPN32-4_th

6. 行基図 日本 桃山時代
JPN32-6_th

7. 琳派 蓮図 日本 江戸時代

8. 月入霧中烏鳴図 中国 黃磊生 昭和時代

9. 洛中工芸図 日本 狩野 安信 17世紀

10. 釈迦牟尼十六羅漢図 日本 室町時代

11. 稲作四季耕作図屏風 日本 狩野之信(雅楽助)室町または桃山時代

12. 芭蕉芍薬図屏風 日本 桃山時代

13. 松梅図屏風 日本 桃山時代

14. 龍虎図屏風 日本 岸駒 19世紀

15. 吉原廓図屏風 日本 土佐派 17世紀

16. 本草博物誌 日本 岸連山 19世紀

17. 阿弥陀来迎図 日本 鎌倉時代

18. 清国洛中洛外図屏風 日本 石田幽汀 18世紀

19. 鶴図屏風 日本 岸駒 19世紀

20. 龍虎図 日本 岸連山 19世紀
KISHI Renzan

21. 洛中洛外図屏風 日本 17世紀
1998-7-1_th 1998-7-2_th

ハイライトはロバート晩年の1994年に寄贈された21. 洛中洛外図屏風である。筆者はこの屏風の存在をオレゴン大学の修士論文のアーカイブで知った。著者のHeather Hanson氏とはLinkedInで繋がり何回かヒアリングをさせて頂いた。ネットの恩恵である。
Ms. Hansonの修士論文

JSMAのHPより所蔵品の検索も可能。

 

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