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2015-10-04

アメリカ日系一世ロバート汐見の足跡(コラム1)ロバートに命を救われた女性の話

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アメリカのルーツ探しサイト ancestry.com に、ロバートの写真や新聞記事が数点アップされていたのを見つけました。不思議に思い投稿者のジョン・マニオンさんに問い合わせたところ、早速返事を頂いたので詳しい話を乞うと翌日には丁寧なメールを送ってくれました。

 

「こんにちは!長いメールですよ!楽しんで下さい!

このメールに僕が調べた全てを書くつもりです。添付ファイルは大きすぎるので分けて送ります。

母について。長い物語ではありません。母は短く簡単に話す人だったので。

それでも彼女は2014年に亡くなる直前まで何度も何度もこの話を語りました。掛かり付けの医者にもDr.ロバートの事を話しました。僕の他の家族もこの話を聞いています。僕が知っている事を話しましょう・・

<母の物語>

彼女は1948年に大学を卒業しました。24才でした。卒業後、まだ働き始める前に彼女は病気になりました。重い病気です。ウィルス性の肺炎でした。彼女の担当医は抗生剤とサルファ剤を処方しましたが彼女はベッドから離れられず、担当医は匙を投げました。

彼女にジェーンという社交的な友人がおり、彼女を介して往診をすることで知られていた日本人医師の元に行く事になりました。母曰く、第二次大戦後のポートランドでは日本人の評判は良くなかったので、普通ならば日本人に助けを求めるなどありえなかったと言うことです。

ドクター汐見は彼女の家を往診しました。何度か診察した後、彼女はサルファ剤アレルギーのために敗血性ショックを起こしているので投薬を止めるべきと診断しました。彼女は高熱を出していたため、彼と看護婦が2週間の間、殆ど毎日往診を続けました。そして3週間の後、彼女は回復したのです。ドクター汐見は、今回の病気のために心肥大の症状が残った事を伝えました。皆、ドクターが彼女の生命を救ったと語り合いました。

彼女は1951年に結婚し、5人の子供に恵まれました。私は彼女の息子です。10年ほど前に初めて彼女からこの話を聞き、私は彼女にもっと話を聞かせて欲しいと頼み、彼がアイダホ(注:ミニドカ強制収容所)にいる時の写真を見つける事が出来ました。彼女にその写真を見せたところ、彼女は「そう。この人よ。」と言いました。これで彼女の話は終わりです。」

1942DrRobertInManzanaar

アメリカの医者は往診をしませんが、ロバートは日本式の往診をしていたので珍しかったようです。戦後の一層辛い時期でも、誠実な仕事を通して信頼を築いて行ったロバートや日系人の姿が小さなエピソードから浮かび上がります。

ジョンさんからは地元オレゴニアン紙に載ったロバートの記事を沢山送って頂きました。ロバートはなかなか愛嬌のある人物だったらしく、よく新聞に載っていたそうです。

また、メールを交わす内にジョンさんのお祖母様がロバートと同じ小学校で1学年下だった事が判り、世間は狭いねと驚きました。

 

出典:Online Archives of California

Hospital Series. Scene in out patients clinic, where Jimmie has an injured thumb repaired. (L to R) Dr. Robert H. Shiomi, Niyoko Shitamae, nurse, Jimmie Shimizu, patient. — Photographer: Stewart, Francis — Hunt, Idaho. 12/10/42

写真右手がロバート。看護婦のシタマエ ニヨコ(ミヨコ?)さん、患者のジミー清水くんもご健在であれば90、100歳でしょう。

 

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