佐島・田坂伊三郎氏の百年前の炭窯をカナダ・ソルトスプリング島で発見
カナダ国立日系博物館の会報「NIKKEI IMAGE」より転載します。
寄稿:チャック田坂氏
国立日系博物館・文化センター発行「NIKKEI IMAGE」2015年夏号 Vol.20 No.2 *1
和歌山県の南紀州はウバメガシを原料にした備長炭で知られる。備長炭は堅く長時間燃え続けるため高品質とされている。多数の紀州出身者がカナダに移民し、この炭焼の技術が役に立った。漁の季節が終わると彼らはガルフ諸島に渡り、冬の生業として炭を焼いた。行き先はメイン島やガリアーノ島、サターナ島であった。
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「古きものは今や新しい」。何千年も前から和歌山県の職人は、サムライの刀に鍛えられる最高の鋼を作る炭を焼いて来た。和歌山の熟練した芸術家は将軍が望む人材であった。彼らは鉄を溶かして武器を作るための最高の炭を焼く技を持ち、且つ陶器を量産する技術も有していた。
電気とガスが普及し、炭焼き技術は過去のものになった。しかし、今この炭焼技術が再び脚光を浴び、鰻や焼き鳥を焼く高級料理人に広く使われるようになっている。ほぼ無煙で高熱を発するためである。
和歌山県の南紀州はウバメガシを原料にした備長炭で知られる。備長炭は堅く、長時間燃え続けるため高品質とされている。多数の紀州出身者がカナダに移民したが、この炭焼の技術が役に立った。漁の季節が終わると彼らはガルフ諸島に渡り、冬の生業として炭を焼いた。移動先はメイン島やガリアーノ島、サターナ島であった。ガルフ諸島には日系人の移植地が点在し、市場園芸が盛んであった。このため、漁師たちはこの地域の入植者から製炭に適した樹木を求めたのである。炭はステベストン(スティーブストン)の魚缶詰工場で、缶をハンダ付けするために使われた。スナップ式の缶が発明されると、その普及と共に炭の需要は失われた。
古来からの炭焼きを学んだ時、私の祖父、田坂伊三郎の事を思わずに居られなかった。私の祖父も漁の無い季節に炭を焼いていたのだ。家族を支える為のなりわいに尊敬の念を禁じえない。
祖父は和歌山出身の友人から炭焼を習った。日本に居た時、祖父は彼の父親が所有する貨物船の船長であった。彼の船が和歌山県の三尾村*2沖で難破した時に、村人は総出で彼を助け、薪を焚き、食料や乾いた衣服を提供した。彼は村人の厚情に生涯恩義を忘れなかったが、この災害をきっかけに伊三郎が三尾村で得た多くの友人の何人かと、後日ブリティッシュコロンビアのステベストンで再会を果たしたのである。伊三郎の本業は漁師だったが、漁の無い季節にはソルトスプリング島に戻り炭を焼いた。
1900年代初頭、アジア人は王領*3の土地を買う事が出来なかった。伊三郎は地元の鍛冶屋、マカフィー氏と友人になり取引をした。つまり、田坂氏は炭の原料になるハンノキを伐るためソルトスプリング島の土地を300エーカー購入する。引き換えにマカフィー氏は炭を仕入れる権利を得る。こうして現在のモウアット公園内に2つの炭窯が築かれた。
ビクトリア州の炭窯再生の達人、スティーブ・ネムティン氏の説明によると、伊三郎の最初の仕事は長さ6m、幅3m、深さ2mの穴を掘る事だった。次はその穴の内側に石壁を築く。ガルフ諸島の他の窯と異なり、伊三郎は窯に改良を加えた。和歌山の窯は概ね子宮か涙粒の形をしているが、祖父は窯を拡張して茸のような形に作り上げた。伊三郎は窯に3ヶ所の排気口を開け、窯に入る酸素の量を調節し易くした。次に祖父は地面にヒマラヤ杉の板を並べた。一列は南北に、もう一列は東西に。そのあと、彼はハンノキを同じ寸法に切り揃え、窯の中に立てて並べた。次に窯を覆う。垂直に立てられた原木は小枝や枝で覆われ、窯は空気を遮断するために砂で固められた。伊三郎は次に窯の入り口から着火し、火入れを行った。これは完了するまでに大変な時間を使う仕事で4-5日間を要し、原木が着火しない様に終日気を付けなければならない。
伯母のマスエと伯父の大正の子供の頃の手伝いは、窯から出る煙を見張る事だった。全ての作業が終わった後、祖父は窯を開けて窯の入り口から熊手で炭を掻き出した。その時の炭の跡が発見されている。マスエは(炭を詰める)米袋が一杯になると袋の端を縫い合わせた。伊三郎は熟練の船長だったので、自前の漁船で炭200ポンド(約90kg)をウォルター湾からビクトリア州の石鹸工場まで運んだ。一袋毎に30セントが支払われ、この副業によって彼は冬の間も大家族を養う事が出来たのである。
田坂伊三郎とヨリエは1905年にソルトスプリングに移転した。ステベストンで長男の一が腸チフスで亡くなったためである。伊三郎は友人からソルトスプリングは水が良いと聞いたのだろう。14人の子供がソルトスプリング島のガンジスで生まれた。耕二、蟻三、佐中、従道、マスエ、大正、二三、フサ、亥子、千鶴子、京、武夫、花、そして八郎である。長男長女の増子と一、1929年に生まれた最年少の末子はステベストンで生まれた。田坂家は一旦ステベストンに戻り、1935年に下から4人の子供を伴って日本に帰った。
約100年を経て、祖父の2つの炭窯が発見された。村上(岡野)喜美子さん*4と娘のローズ、そしてステファン・ネムティン氏が窯の場所を覚えていたのである。
2014年にローズが窯の再生プロジェクトを開始し、日本庭園協会理事のカネサカ ルミ氏は寄付寄贈の募集に奔走した。ビクトリア首都地域ソルトスプリング公園・レクリエーション委員会(CRD-PARC*5)はガリアーノ島のステファン・ネムティン氏の支援依頼に応え、大いなる情熱をもって本件を後押しした。ステファンと協会のスタッフにより炭の欠片やクレオソート、窯や圧縮された砂の結晶プレートが発見された時は大変な興奮に包まれた。皆、砂場の子供のように働いた。大型の釜が先に再生され、続いて小型の釜に取り掛かる予定である。
ビクトリア首都地域ソルトスプリング公園・レクリエーション委員会、地域ボランティアの皆様により本件が実ることが出来た事を、田坂家一同に代わり篤く御礼申し上げる。窯の完成は7月頃を予定している。
以 上
*1 NIKKEI IMAGE:
原文 Isaburo Tasaka’s 100-year old Charcoal Kiln found on Salt Spring Island
http://centre.nikkeiplace.org/wp-content/uploads/2015/06/NI2015_Summer-FINAL.pdf
8-9ページ参照
(参考記事)
ソルトスプリング日本庭園リリース 2015/11/29にオープニングイベント開催
http://www.saltspringjapanesegarden.com/about-the-restoration
現地説明会の動画
https://www.youtube.com/watch?v=HQmHVu2uhKo
*2 三尾村:
和歌山県日高郡美浜町三尾。19世紀末より1940年代まで一村より2千余人の移民がカナダ・バンクーバー郊外のスティーブストンに渡り、帰国者が彼の地の生活文化を持ち帰った事から「アメリカ村」として知られる。出典:wikipedia 「アメリカ村 (美浜町)」
海難者を村総出で助けるエピソードは1890年串本沖におけるトルコ(旧オスマン帝国)エルトゥールル号遭難事件を思わせる。ちなみに同事件と、1985年イラン・イラク戦争時のトルコ政府による日本人救出劇が、今年12月に映画化、公開される予定。憎しみの応酬は現在に至るまで掃き捨てる程あるが、日本のごく普通の人々による無償の奉仕が築いたトルコとの友好関係の歴史と精神は、広く知られて欲しいと願う。また、汐見の家での多様な国、民族との出会いが小さな奇跡を紡いで行けるならば、いつか大きな力をもたらすかもしれないと真剣に思っている。
日本・トルコ友好125周年両国合作映画
『海難1890』
*3 王領:当時カナダは英国領だった
*4 村上(岡野) 喜美子 1904-1997 因島田熊町出身の日系一世。肖像がソルトスプリング島の地域100ドル紙幣に採用されている。北米紙幣でアジア女性の肖像が採用された初のケースとも。ちなみにロバート汐見と同い年である。
出典:せとうちタイムズ「北米紙幣になった日本女性キミコオカノムラカミ」
http://0845.boo.jp/times/archives/category/serial/kimiko
*5 CRD-PARC:The Capital Regional District
– The Salt Spring Parks and Recreation Commission
ビクトリア首都地域-ソルトスプリング公園レクリエーション協会)
*漢字が判らない日系人の方はカタカナ表記とした。
*注記、和訳:西村 暢子
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